織田家奉行衆の一員とは? わかりやすく解説

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織田家奉行衆の一員

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/06 06:04 UTC 版)

矢部家定」の記事における「織田家奉行衆の一員」の解説

年を経るにつれて家定従来の京での信長秘書のような仕事加えて、京を離れて各種奉行仕事多くなり、多忙な日々を送ることになる。 天正5年1577年10月5日信長裏切った松永久秀人質成敗する奉行福富秀勝と共に務める。天正6年1578年元旦には礼に安土城集まった諸将信長より三献の盃が下されたが、家定大津長昌と共に晩酌の役をした。同年6月には播磨国神吉城攻め検使同年10月謀反兆し見せ摂津国有岡城荒木村重説得福富秀勝佐久間信盛堀秀政と共に行い、更に同年11月には有岡城の戦い検使務めた天正7年1579年5月27日安土宗論では浄厳院警固役一人。翌5月28日には信長安土宗論後始末村井貞勝命じた黒印状副状発給した同年12月13日蜂屋頼隆らが奉行務め荒木村重一族焼殺検使役。天正8年1580年3月1日には有岡城城番として摂津派遣されたが、同月13日には安土へと戻っており上洛した後北条氏使い土産代を遣わせている。同年8月1日使者として摂津派遣され顕如らに石山本願寺退去を急ぐように命令し同月2日には顕如らが退去し石山本願寺受け取り検使務めた。そして同月20日には大和国派遣され滝川一益と共に城郭破却の任にあたっている。 天正10年1582年1月5日行われた左義長」では家定菅屋長頼堀秀政長谷川秀一四人小姓衆・馬廻衆率いて凱旋した同年2月より行われた甲州征伐には信長近侍して3月中に出馬家定菅屋長頼堀秀政長谷川秀一福富秀勝五人馬廻率いて4月甲斐国入りしたが、既に織田信忠によってほぼ武田氏駆逐されており、戦闘無かった。その為、家定仕事3月14日信忠使者により届けられ武田勝頼首級信長元に持参した事と同月20日森成利と共に降服した小笠原信嶺知行安堵を行うなどの仕事のみであった甲斐から帰国後の同年5月信長四国攻め宣言し織田信孝大将とする四国討伐軍が編成された。これに伴って家定淡路国平定信長命じられたと『武家事紀』は記しているが、淡路天正9年1580年)に既に羽柴秀吉の手によって平定されており、家定与えられた「淡路での任務」は以前担当したことのある城郭破却などの政務の事であると思われる

※この「織田家奉行衆の一員」の解説は、「矢部家定」の解説の一部です。
「織田家奉行衆の一員」を含む「矢部家定」の記事については、「矢部家定」の概要を参照ください。

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