織田家奉行衆の一員
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年を経るにつれて家定は従来の京での信長の秘書のような仕事に加えて、京を離れての各種奉行仕事も多くなり、多忙な日々を送ることになる。 天正5年(1577年)10月5日、信長を裏切った松永久秀の人質を成敗する奉行を福富秀勝と共に務める。天正6年(1578年)元旦には礼に安土城に集まった諸将に信長より三献の盃が下されたが、家定は大津長昌らと共に晩酌の役をした。同年6月には播磨国神吉城攻めの検使、同年10月に謀反の兆しを見せる摂津国有岡城の荒木村重の説得を福富秀勝・佐久間信盛・堀秀政と共に行い、更に同年11月には有岡城の戦いの検使を務めた。 天正7年(1579年)5月27日の安土宗論では浄厳院警固役の一人。翌5月28日には信長が安土宗論の後始末を村井貞勝に命じた黒印状に副状を発給した。同年12月13日、蜂屋頼隆らが奉行を務める荒木村重一族焼殺の検使役。天正8年(1580年)3月1日には有岡城の城番として摂津に派遣されたが、同月13日には安土へと戻っており上洛した後北条氏の使いに土産代を遣わせている。同年8月1日、使者として摂津に派遣され顕如らに石山本願寺退去を急ぐように命令し、同月2日には顕如らが退去した石山本願寺受け取りの検使を務めた。そして同月20日には大和国に派遣され、滝川一益と共に城郭破却の任にあたっている。 天正10年(1582年)1月5日に行われた「左義長」では家定と菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一の四人が小姓衆・馬廻衆を率いて凱旋した。同年2月より行われた甲州征伐には信長に近侍して3月中に出馬。家定と菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一・福富秀勝の五人が馬廻を率いて4月に甲斐国入りしたが、既に織田信忠によってほぼ武田氏は駆逐されており、戦闘は無かった。その為、家定の仕事は3月14日に信忠の使者により届けられた武田勝頼の首級を信長の元に持参した事と、同月20日に森成利と共に降服した小笠原信嶺の知行安堵を行うなどの仕事のみであった。 甲斐から帰国後の同年5月、信長は四国攻めを宣言し、織田信孝を大将とする四国討伐軍が編成された。これに伴って家定は淡路国平定を信長に命じられたと『武家事紀』は記しているが、淡路は天正9年(1580年)に既に羽柴秀吉らの手によって平定されており、家定の与えられた「淡路での任務」は以前担当したことのある城郭破却などの政務の事であると思われる。
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