織田家の治世とは? わかりやすく解説

織田家の治世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 05:11 UTC 版)

小幡藩」の記事における「織田家の治世」の解説

元和元年1615年7月23日織田信長次男・信雄に、大和国宇陀郡3万石上野国2万石領地与えられた。宇陀には信雄自身入り大和宇陀藩)、小幡領は信雄の四男・信良に与えられることになり、信良は元和2年1616年)に福島御殿入った小幡藩織田氏信長の孫であったことから、特別に国主格の待遇与えられた。 寛永3年1626年)に信良が没すると、2歳の信昌が跡目相続し第2代藩主となった。信雄の命によって、信昌の叔父にあたる織田高長後見務めた。この信昌のときに検地が行なわれて藩政基礎固められた。小幡村小幡陣屋建設され藩庁福島から移されたのも信昌の時代である。寛永6年1629年)に移転決定されその後町割り水道敷設などが計画実施され寛永19年1642年)に普請終了して藩庁移転したとされる小幡陣屋隣接して庭園楽山園」が造営されているが、この庭園については造営時期作庭者がはっきりしない。『楽山園由来記』によれば元和7年1621年)に織田信雄造営した伝えており、これを信じれば小幡村には藩庁建設される以前庭園別邸があった可能性がある。 信昌の治世末期から財政難始まり宝暦5年1755年)の第5代藩主織田信右の代には収入が6269両であるのに対して支出が2倍近く1万2844両に及んだ第7代藩主・信邦の代である明和3年1766年)には、藩財政再建めぐって重臣間の紛争生じたが、これをきっかけとして明和4年1767年)に尊王思想家の山県大弐らが捕らえられた(明和事件)。明和事件連座して信邦は蟄居処分となり、信邦の跡を継いだ養嗣子・信浮は出羽高畠藩移された。このとき、国主格の待遇廃止された。

※この「織田家の治世」の解説は、「小幡藩」の解説の一部です。
「織田家の治世」を含む「小幡藩」の記事については、「小幡藩」の概要を参照ください。

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