織田家の治世
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元和元年(1615年)7月23日、織田信長の次男・信雄に、大和国宇陀郡3万石と上野国2万石の領地が与えられた。宇陀には信雄自身が入り(大和宇陀藩)、小幡領は信雄の四男・信良に与えられることになり、信良は元和2年(1616年)に福島御殿に入った。小幡藩織田氏は信長の孫であったことから、特別に国主格の待遇を与えられた。 寛永3年(1626年)に信良が没すると、2歳の信昌が跡目を相続し、第2代藩主となった。信雄の命によって、信昌の叔父にあたる織田高長が後見を務めた。この信昌のときに検地が行なわれて藩政の基礎が固められた。小幡村に小幡陣屋が建設され、藩庁が福島から移されたのも信昌の時代である。寛永6年(1629年)に移転が決定され、その後に町割りや水道敷設などが計画・実施され、寛永19年(1642年)に普請が終了して藩庁が移転したとされる。小幡陣屋に隣接して庭園「楽山園」が造営されているが、この庭園については造営時期や作庭者がはっきりしない。『楽山園由来記』によれば元和7年(1621年)に織田信雄が造営したと伝えており、これを信じれば小幡村には藩庁が建設される以前に庭園や別邸があった可能性がある。 信昌の治世末期から財政難が始まり、宝暦5年(1755年)の第5代藩主・織田信右の代には収入が6269両であるのに対して、支出が2倍近くの1万2844両に及んだ。第7代藩主・信邦の代である明和3年(1766年)には、藩財政再建をめぐって重臣間の紛争が生じたが、これをきっかけとして明和4年(1767年)に尊王思想家の山県大弐らが捕らえられた(明和事件)。明和事件に連座して信邦は蟄居処分となり、信邦の跡を継いだ養嗣子・信浮は出羽高畠藩へ移された。このとき、国主格の待遇も廃止された。
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