織田家仕官と伊勢攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 04:44 UTC 版)
大永5年(1525年)、滝川一勝(滝川資清)の子として生まれたとされるが、尾張国の織田信長に仕えるまでの半生は不明である。父が甲賀出身であるとする説の立場からは、若き頃は近江国の六角氏に仕えていたとされることがある。『寛永諸家系図伝』には「幼年より鉄炮に長す。河州(河内国)にをひて一族高安某を殺し、去て他邦にゆき、勇名をあらはす」とあり、鉄砲の腕前により織田家に仕官したとされている。後年に水戸藩の佐々宗淳から織田長清に送られた書状には、「滝川家はそれなりに由緒ある家だったが、一益は博打を好んで不行跡を重ね、一族に追放され、尾張津島の知人のところに身を寄せた」と書かれている。 信長に仕えた時期は不明であるが、『信長公記』首巻によると、信長が踊りを興行した際に「滝川左近衆」が餓鬼の役を務めた、という記述がある。また信長の側室の一人であった慈徳院は一益の親族とされているが、慈徳院は弘治年間(1555年 - 1558年)に生まれた織田信忠の乳母であったことから、一益もこの頃には信長の家臣であったと推測されている。『妙心寺史』では、慈徳院は一益の娘であるとしている。妙心寺56世の九天宗瑞は一益の子である。 永禄3年(1560年)、北伊勢の桑名は美濃国との境であり、患となる可能性があるため、桑名長島の地を得て北畠氏や関氏に対し備えることを一益が信長に進言した。尾張国荷ノ上の土豪で長島城主の服部友貞の資金によって蟹江城を構築したが、やがて友貞を放逐して蟹江城主となった。永禄6年(1563年)には松平家康(後に徳川に改姓)との同盟交渉役を担った(清洲同盟)。 永禄10年(1567年)と永禄11年(1568年)の2度にわたる織田家の伊勢国攻略(北勢四十八家を中心とする諸家を滅ぼした)の際には、攻略の先鋒として活躍している。源浄院主玄(後の滝川雄利)を通じ北畠具教の弟の木造具政を調略し、具教が大河内城を明け渡した際には津田一安と共に城の受け取りを任された。戦後は安濃津・渋見・木造の三城を守備することを命じられ(大河内城の戦い)、永禄12年(1569年)に与えられた北伊勢5郡を本拠地とした。津田一安は天正3年(1575年)頃から北畠家の軍事行動を先導しており、一益と連携して越前一向一揆討伐や大和国宇陀郡の統治を行っている。
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