南北朝鮮独立以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 16:15 UTC 版)
朝鮮は古代より、「陳勝などの蜂起、天下の叛秦、燕・斉・趙の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「辰韓は馬韓の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」という様に、朝鮮では国を割いてまで秦の亡民の建国を許しているように、多様な経路からの異民族の移住が多く、また、朝鮮半島中・西北部は楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の植民地漢四郡が置かれ、漢の植民地だった時期に漢族が移住して土着化し、東北部は高句麗人、渤海人、女真人等ツングース民族の流入が相次ぎ、また、高麗時代前時期にかけて、異民族が23万8000人余りも帰化したが、李氏朝鮮時代から日本統治時代にかけて住民の均質化が進んだ。 朝鮮への近代最初の中国人移民は、19世紀末に現れた。朝鮮半島に来た中国人の多くは、専門知識を有さない季節労働者が構成した。華人は、主として、海路でソウル、並びに海の玄関口である仁川に定住した。特に仁川では、1880年代末、朝鮮で最初の中国人街(チャイナタウン)が生まれた。 日本統治時代の朝鮮の主要対外貿易相手が中国であったため、華人は、1920年代から、朝鮮の対外貿易において大きな役割を演じた。1948年、韓国の全輸出入取引のほぼ52%は、現地華人に属する会社により実施されていた。 1931年に中国の長春で万宝山事件が起き、朝鮮日報の「中国人による朝鮮農民への集団暴行、大量殺人」の誤報で同胞への暴虐に憤った朝鮮人は平壌、仁川等、朝鮮半島各地および日本での華人街で排斥、集団暴行、殺人の暴動を起こした。これにより、多くの華人は家族、家財を失い、約1万人が中国へ帰国し、華人社会は壊滅的な打撃を受けた。(朝鮮排華事件)
※この「南北朝鮮独立以前」の解説は、「朝鮮半島の華人」の解説の一部です。
「南北朝鮮独立以前」を含む「朝鮮半島の華人」の記事については、「朝鮮半島の華人」の概要を参照ください。
- 南北朝鮮独立以前のページへのリンク