望海寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 11:30 UTC 版)
『三国遺事』紀異・処容郎望海寺条には、王が東海の竜の霊験を得たこととそれに応えるための寺の建立とを伝えている。 王が開雲浦(蔚山広域市)への行幸から還る際に、にわかに雲と霧が立ちこめて目前の道が見分けられないほどになった。不審に思って左右のものに尋ねたところ、気象観察の官が「これは東海の竜の仕業であるから、なにかよいことをして解くのがよいでしょう」とのことであった。そこで王はこの近所に竜のための寺を建てるように命じたところ、雲は晴れ霧は消えた。その縁起によってこの地は開雲浦と名づけられた。そして東海の竜が喜んで七人の子どもとともに王の前に現われ、王の徳を称えて舞を舞った。竜の子の一人は処容といい、王とともに都に上って王の政治を補佐することとなり、級干(9等官)の官位が与えられた。王が都に戻ってから、霊鷲山(蔚山広域市蔚州郡)の東のふもとの見晴らしの良いところに寺を建てさせ、これを望海寺(または新房寺)という。 東海の竜というのは、三国統一を果たした第30代文武王が死後に護国の大竜に化身したとの俗伝に由来するものであるが、望海寺の建立を契機としてこうした俗伝がひろまったものとも見られている。 『三国史記』新羅本紀に対応すると見られる記事は憲康王紀5年(879年)3月条であり、こちらには 王は国の東部の州郡を巡幸したが、そのときに何処から現われたのかわからない4人の人があって、王の前に来て歌を歌い舞を舞った。姿かたちは人々を驚かせるに足るものであり、衣装も風変わりであった。人々は山海の精霊であろう、と考えた。 とするのみである。
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