遣戸障子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 00:57 UTC 版)
遣戸は現在の襖の原型であり、国産であって大陸には無い。記録上は10世紀末頃を初見とする。なお舞良戸(まいらど)も遣戸である。立蔀のような格子(画像s06)を遣戸に用いることもある。絵巻には現在の襖の原型を含む多くの障子が描かれるが、絵巻物自体が12世紀以降である。それ以前については文献史料しかないが、物語を見ると『竹取物語』『伊勢物語』『土佐日記』には現在の襖のような遣戸は出てこない。『宇津保物語』には壁代は出てくるがやはり遣戸は出てこず、10世紀末頃とされる『落窪物語』に始めて「中隔ての障子をあけたまふに」と襖のような遣戸が出てくる。『源氏物語』にも出てくる。平安時代も末、12世紀頃には、内裏や寝殿の儀式のときの室礼の指図にショウシあるいは障子と書かれるものが多くあり、それらは引違戸の記号で書かれる(参考:東三条殿侍廊指図)。 現在の襖や障子の上下の桶(溝)の幅は襖や障子の幅より狭く、それで二枚の襖などが開いたときにはきちんと重なるが、この工夫は江戸時代からである。平安時代から室町時代の遣戸はそうはなっておらず、桶は遣戸と同じ幅で、2本の溝を掘ると二枚の遣戸の間に溝の土手分の隙間が出来る。そのため遣戸を閉じたときに重なる部分に方立(ほうだて)、つまり細い柱を立ててその隙間を埋める。実例は法隆寺・聖霊院と、絵巻では『春日権現験記絵』に描かれている。
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