遣唐押使として渡唐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 16:53 UTC 版)
慶雲2年(705年)従六位上から三階昇進して従五位下に叙爵する。元明朝では、和銅4年(711年)従五位上、和銅8年(715年)正月には一挙に三階昇進して従四位下と順調に昇進し、同年5月には造宮卿に任ぜられ平城宮の造営を担当する。 元正朝に入り、霊亀2年(716年)8月に遣唐押使に任命され、翌霊亀3年(717年)3月に節刀を授けられる。渡唐行程についての詳細な記録はないが、おそらく同年6月~7月ごろに出発して、南路から長江河口部または杭州に着いたものと推定されている。長安に到着したのは同年の10月1日であった。このときの遣唐使一行には、留学生に阿倍仲麻呂・吉備真備・井真成らが、留学僧に玄昉などがおり、また使節団の要員も前回(大宝2年〔702年〕)の倍以上である557人(船4隻)という大規模なものであった。養老2年(718年)10月に使節団は一人の犠牲者も出さずに無事帰国した。同年12月に県守は復命を果たし、翌養老3年(719年)正月には二階の昇叙を受けて正四位下となる。 その後武蔵国守に任ぜられると、同年7月には新設された按察使の一人として、相模国・上野国及び下野国を管轄する。まもなく播磨国按察使に転じる。
※この「遣唐押使として渡唐」の解説は、「多治比縣守」の解説の一部です。
「遣唐押使として渡唐」を含む「多治比縣守」の記事については、「多治比縣守」の概要を参照ください。
- 遣唐押使として渡唐のページへのリンク