遣唐使の消滅
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寛平6年(894年)、唐国温州長官・朱褒の求めに応じる形で、宇多天皇主導で56年ぶりに遣唐使計画が立てられた。8月21日、遣唐大使に菅原道真が任命された。しかし二十日後、道真によって遣唐使派遣の再検討を求める「請令諸公卿議定遣唐使進止状」が提出された。 道真は、この年5月に唐人によって伝えられた、在唐留学僧中瓘の書状を基として遣唐使派遣の是非を問うた。奏状の概要は以下のとおりである。 中瓘の伝えてくることによれば、唐では内乱が続いており、唐の衰えは甚だしく、既に日本と唐の交流は停止している。 過去の記録の伝えることによれば、遣唐使の多くは遭難したり盗賊に遭うなどしていたが、唐に渡ってからは危険が及んだ例はない。しかし、唐が衰えている現状では唐に渡ってからも危うい。 中瓘の情報を公卿・諸学者は、よく検討し、派遣の可否を決めて欲しい。 『日本紀略』には道真の奏状が提出された同年の九月三十日条に「其日、遣唐使を停める」という記事があったため、長らく道真の建議によって遣唐使が「停止」されたと見られていた。しかし1990年、石井正敏が『日本紀略』において「其日」が「某日」と同意義で使われていることなどから、この記述に史料性はないとし、この日付で遣唐使が停止されたという事実はないという結論を発表した。この結論は研究者によって概ね支持されている。道真ら遣唐使予定者はこれ以降も引き続き遣唐使の職位を帯び、道真が最後に遣唐大使と称された記録は寛平9年(897年)5月13日であり、遣唐副使の紀長谷雄は延喜元年(901年)10月28日に公的文書で使用した例が残っている。また寛平8年(896年)には宇多天皇が唐人李環(梨懐)を召して直接話を聞いているが、これは遣唐使派遣のための情報収集とみられている。 しかし、国内の災害や唐の衰退、道真・長谷雄の昇進による人事の問題により、遣唐使派遣は遅々として進まなかった。ついに延喜7年(907年)には唐が滅亡したことによって、遣唐使は再開されないままその歴史に幕を下ろした。
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