遣唐使の行程とは? わかりやすく解説

遣唐使の行程

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 08:10 UTC 版)

遣唐使」の記事における「遣唐使の行程」の解説

羅針盤などがないこの時代航海技術において、中国大陸特定の港に到着することはまず不可能であり、唐に到着した遣唐使はまず自船の到着位置確認した上で近くの州県に赴いて現地官憲査察を受ける必要があった。査察によって正規使者であることが確認された後に、州県は駅伝制用いて唐の都である長安まで遣唐使を送ることになるが、安史の乱以後は安全上の問題から長安入れ人数制約設けられ事例もあった。長安到着後は「外宅」と称される施設群宿舎として用いられた(日本鴻臚館相当する)。 長安到着した遣唐使皇帝会見することになるが、大きく分けて日本からの信物(国書があればともに)を奉呈する儀式の「礼見」と内々会見儀式の「対見」、帰国途に就く際に行われた対面儀式の「辞見が行われた。前者通常宣政殿にて行われ、信物の受納遣唐使への慰労言葉下されるが、皇帝不出御の場合もあった。後者皇帝日常生活の場である内朝(日本内裏相当する)の施設行われ皇帝からは日本国情に関する質問や唐から日本対す具体的な指示意向示され遣唐使からは留学生への便宜書物下賜物品の購入許可などの要請なされた考えられている。また、遣唐使滞在中に元日朝賀朔旦冬至重なった場合には関連行事への参列求められその後饗宴では大使以下に唐の官品(位階)が授けられた(なお、『続日本紀』などによれば大使には正三品級が授けられ、以下役職によって官品の高低に差があったという)。また、対見によって許可され書物下賜物品の購入行われたが、実際には唐側によって公然非公然海外へ持ち出し禁じられ書物正史法令叢書など)や貴重品存在したまた、原則的に遣唐使含めた外国使節は「外宅」に滞在し現地住民との自由な接触禁じられていたが、実際に到着段階位置確認のために現地住民接触をせざるを得ず希望する文物獲得するための交渉などの必要からその原則破られることは珍しくはなかった。 最後に遣唐使皇帝に対して帰国許可求める「辞見」の会見を行う。唐側は末期除いて遣唐使長期滞在望んだが、日本側では使命終了後早急帰国留学生を除く)が原則となっていた。遣唐使出航する都に向かう際には、唐側から鴻臚寺官人が送使として付けられ出航直前皇帝から託された唐側の国書遣唐使渡された。なお、極めて稀であるが、唐側より日本側への遣使が行われたことがあり、第1回高表仁宝亀年間趙宝英(ただし、日本に向かう途中水死したため判官孫興進大使代行務めた)がこれに該当するまた、安史の乱最中天平宝字年間には遣唐使護衛として越州浦陽府押水手官の沈惟岳付けられている(ただし、乱による混乱から沈惟岳らは唐に戻ることが出来ずそのまま日本帰化している)。

※この「遣唐使の行程」の解説は、「遣唐使」の解説の一部です。
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