鳥居障子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 00:57 UTC 版)
画像11の襖状のものが鴨居の上まで含めて鳥居障子である。寝殿造は今の襖や障子を前提とした建築物ではないので、内法長押(うちのりなげし)の位置が高い。例えば寝殿造の工法を伝える西明寺の例では柱の芯々で9.4尺(2.84m)。柱と柱の間の開口部は8.3尺(2.5m)、内法長押と下長押の間は8.1尺(2.4m)もある。その高さは東三条殿など最上級の摂関家の寝殿造でも同じで、現在の和風住宅の鴨居(約6尺)より約2尺(60cm)高いことになる。 その内法長押の位置が鴨居であったら襖は今より幅があるだけでなく、高さまで2尺も高くなってしまう。当時は大工道具も未発達。木材を縦に切る鋸はまだ無い。柱や板は「打割製材」と言って(参考:春日権現記絵)の右側のように割って作る。平鉋(ひらかんな)もない。そんな時代に敷居や鴨居の溝を掘るのは大変で、そのため子持障子(後述)と云って、ひとつの溝に二枚三枚の明障子を填めることまである。 遣戸障子は今日から考えると実に武骨で大変重い建具であり滑りも悪い。今の襖なら指一本でも明けられるが、画像11の襖にも遣戸障子を開けるための40〜50cmほどのひもが描かれている。また、現存する初期書院造、二条城大広間や園城寺・光浄院客殿の帳代構の襖にも、半ば装飾化はしているが同様に紐がつけられている。中世以前にはどれだけ重かったかがそれだけでも解る。そのため日常生活にふさわしい遣戸障子、今でいう襖を収めるには、建物の一部である内法長押よりも下の位置に鴨居を取り付ける。小泉和子によると内法長押の下一尺ほどのところに入れるという。それでも襖は今より一尺あまり高い。そして鴨居と内法長押の間はやはり障子、つまりパネルを填める。当時こうした形式の障子を神社の鳥居の形に似ていることから鳥居障子と呼んだ。 『台記』に東三条殿(参考:東三条殿平面図)で開かれたかれた因明講仏事の室礼が記されているが、そこには東対西庇南第三間北側の鳥居障子を外し、母屋塗籠の妻戸の上と、その鳥居障子を外した部分に御簾を懸けるとある。画像11の鴨居は黒漆塗が塗ってある。これは道具、建具であることを示している。この当時の障子には軟錦(ぜんきん)が張られている。軟錦とは襖や障子の縁取り装飾として使用された帯状の絹裂地のことである。模様は違うが御簾(画像04)の縦についている帯と同じである。画像11の鴨居の上、内法長押までの間の壁のように見える部分にも軟錦が貼られている。つまりそこも障子である。現在では障子や襖は建物ではなく建具だが、鴨居や敷居は建物の一部である。しかし寝殿造においては鴨居の上の、今なら塗り壁の部分も障子であり、敷居や鴨居も、その上のパネルも含めて取り外し可能な建具の一部である。
※この「鳥居障子」の解説は、「障子」の解説の一部です。
「鳥居障子」を含む「障子」の記事については、「障子」の概要を参照ください。
鳥居障子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:55 UTC 版)
遣戸障子は現在の襖の原型であり、国産で大陸には無い。記録上は10世紀末頃を初見とする。鳥居障子は遣戸障子であるが、遣戸障子の全てが鳥居障子であったとは限らない。 画像450の襖状のものが鴨居の上まで含めて鳥居障子である。寝殿造は今の襖やショウジを前提とした建築物ではないので内法長押の位置が高い。そして当時は大工道具も未発達。平鉋(ひらかんな)もない時代なので障子(襖)は今と同じ大きさで比べても非常に重い。その重い障子の鴨居が内法長押の位置で、そこまでが障子の高さだったとしたら、ただでさえ重い障子が更に重く使いにくくなる。鳥居障子はそれを改善するための工夫である。 現在では襖やショウジは建具でも鴨居や敷居は建物の一部である。しかし寝殿造の時代には敷居や鴨居も、その上の今なら塗壁や欄間の部分も障子であり、取り外し可能な建具の一部である。実際に儀式のときなどはそれを丸ごと外している(「障子#鳥居障子」も参照)。
※この「鳥居障子」の解説は、「寝殿造」の解説の一部です。
「鳥居障子」を含む「寝殿造」の記事については、「寝殿造」の概要を参照ください。
鳥居障子と同じ種類の言葉
- 鳥居障子のページへのリンク