鳥居耀蔵との接触
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 02:33 UTC 版)
本庄が鳥居の家来になった経緯については、2つの説がある。 『天弘録』の「鳥居甲斐守元家来本庄茂平次え申渡書」によれば、鳥居が長崎奉行になるという風聞が流れたことから出世の手だてとして本庄が鳥居に近づき、長崎取締りのことで申し立てをしたということになっている。 「矢部駿州と鳥居甲斐」(栗本鋤雲著『匏菴遺稿』(明治33年・裳華書房)所収)では、天保11年当時目付だった鳥居が長崎の事情をひと通り心得ていたいと考え、同僚の目付・水野采女のもとに出入りしていた本庄茂平次という男に接触したとある。本庄は長崎の商法や取締筋のことなどをたずねられた後、翌月(5月)に長崎へ出かけ、同年9月中に江戸に戻ってきて長崎商法取締筋などについて町年寄どもへ申し立てておいた書面の写しを鳥居に差し出したという。
※この「鳥居耀蔵との接触」の解説は、「本庄茂平次」の解説の一部です。
「鳥居耀蔵との接触」を含む「本庄茂平次」の記事については、「本庄茂平次」の概要を参照ください。
- 鳥居耀蔵との接触のページへのリンク