鬼の間
鬼の間
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 00:43 UTC 版)
古来から日本に伝わる家相では、北東は鬼門とみなされ、京都御所、築地塀の「猿ヶ辻」が基になっているが、清涼殿内部には鬼の間が存在した。清涼殿の南西隅、すなわち裏鬼門の位置にある。大和絵師、飛鳥部常則が康保元年(964年)に鬼を退治する白沢王像を描いたとされる。 順徳天皇が著した『禁秘抄』に絵について記述がある。壁に描かれていた王は、一人で剣をあげて鬼を追う勇姿であり、それを白沢王といい、古代インド波羅奈国(はらなこく)の王であり、鬼を捕らえた剛勇の武将であると言う説がある。現在の建物(鬼の間)に、白澤王の絵は描かれていない。なお、江戸中期の随筆「夏山雑談」には、白沢王は李将軍、「白澤王」としても記されている。昭和43年、皇居東御苑が一般公開されたが、京都御所はGHQの管理下でありながら、昭和21年11月に一般公開されている、しかし現在でも鬼の間は一般公開されていないと、述べている。これについて、家相を研究する小池康寿は著書『日本人なら知っておきたい正しい家相の本』において、京都御所や天皇家が鬼の災い、神の祟り(自然災害、火災、疫病の蔓延)を恐れて築地塀を凹ませていたとするより、庶民に災厄が及ばぬように皇室が一手に凹み(猿ヶ辻)で受けとめ、御所内部の清涼殿の鬼の間に導いて鬼を切り倒すことで世の安泰を願っていた(宮中祭祀)と解釈した方が自然であると論じ、外から見た御所の塀の凹みのみに注目した庶民の単純な考えが鬼門除けの発想に繋がったと考えるのが理に適うとしている。
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