鬼門の捉え方(権力者)
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時の統制者は、京内を結界(聖と俗を分離)し、人々が暮らす京内に災い事が起きないよう四角四境の祭祀を行っていた。代表的なものに、京城四隅疫神祭(都)、宮城四隅疫神祭(内裏)があり、四方を平等に崇めていた 歴史がある。現在でも地鎮祭で四方を囲み結界をつくり、その土地に災いが起きぬよう祭礼を行う地鎮祭が引き継がれており、同じく四方を平等に崇めている。また、歴代天皇は、正月元旦、早朝から四方を拝され、年災消滅、五穀豊穣を祈る四方拝といわれる祭祀を行っていて、それは寛平二年(890)から現在の天皇まで1100年以上続いている。これらは鬼門の観念とは直接には関係がない。 鎌倉時代初期の僧慈円は、比叡山が、都の丑寅の方角にある鬼の門を塞いでいると和歌に詠んだ。 武家の世界では多くの城で鬼門方位に厠をつくることが常道とされていた。安土城、福知山城、岡山城、姫路城などは裏鬼門に厠が配されていたとされ、鬼神の災いを恐れず覚悟を持った武将の気構えと捉えることができる、と論じている。 江戸中期の学者新井白石は『鬼門説』を著し、当時一般的になっていた鬼門の観念について、その起源などの考察をおこなった。
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鬼門の捉え方(庶民)
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十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったり、京都御所の北東角の軒下に木彫りの猿が鎮座し、築地塀がそこだけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきた。 京都御所の築地塀が鬼門、北東方位を凹ませてつくられていることから、「御所が鬼門を避けている」「除けている」と考えられ、それが鬼門を除ける手法とされてきた。 東京芸術大学、東京工業大学名誉教授 清家清の著書 「現代の家相」には、「家相の教え通りに凹ませている」と書かれている。現代でも人々は縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、ヒイラギやナンテン、オモトを植えたり、鬼門や裏鬼門(南西)から水回りや玄関を避けて家作りをする場合がある。京都のNPO法人が2015年、京都市内中心部だけで、ビルや店舗、一般住宅など、約1100か所に鬼門除けがあるという調査がなされ、四角く囲って玉砂利を敷いたり、ヒイラギ、南天を植えている調査結果が発表されている。 京都御所の内部には鬼の間が存在している。鬼の間とは、京都御所において仁寿殿の西、後涼殿の東にある清涼殿の南西隅の部屋であり、すなわち裏鬼門の位置にある。飛鳥部常則が康保元年(964年)に鬼を退治する白沢王像を描いたとされている。順徳天皇が著した『禁秘抄』にこれに関する記述がある。壁に描かれていた王は、一人で剣をあげて鬼を追う勇姿であり、それを白沢王といい、古代インド波羅奈国(はらなこく)の王であり、鬼を捕らえた剛勇の武将であると言う説がある。 現在の建物(鬼の間)に、白澤王の絵は描かれていない。なお、江戸中期の随筆「夏山雑談」には、白沢王は李将軍、「白澤王」としても記されている。京都御所、天皇家が鬼の災い、神の祟り(自然災害、火災、疫病の蔓延)を恐れて、築地塀を凹ませていた、という解釈より、庶民に災いごとがふりかからないように、皇室が一手に凹みで受けとめて、御所内部の清涼殿、鬼の間に導いて鬼を切り倒し、世の安泰を願っていた、そう解釈したほうが自然であると、家相を研究する小池康寿は著書に記している。現代でも皇居の間取りは公開されておらず、外から見ただけの塀の凹みだけを受けて鬼門除けに繋がったと考えた方が理に適う。猿ヶ辻に関しても前述とは別に御所を守護する日吉神社の神の使いが猿だったことから、「猿ヶ辻」と呼ばれる記述もある。昭和43年、皇居東御苑が一般公開されたが、京都御所はGHQの管理下でありながら、昭和21年11月に一般公開されたが、現在でも鬼の間は一般公開されていない。
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