鬼門を恐れた理由
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 22:05 UTC 版)
「鬼門」という言葉は、後漢の時代、王充『論衡(ろんこう)』訂鬼篇にひく「山海経」に見られる。 「山海経」によれば、滄海(東海)のなかに度朔山(どさくさん)があり、山上には大桃木がある。三千里にもわたって曲がりくねり、枝の間の東北方を鬼門といい、そこは萬鬼(ばんき)が出入りするところとなっている。山上には二神人がいて(中略)、萬鬼をみはっていた。悪害をもたらす鬼は葦の縄で縛ってとらえ、虎の餌食とした。そこで黄帝は礼をつくり、時をみはからって、桃の木でつくった大きな人形を門に立て、門戸に二神人と虎を描いた絵を祀り、葦の縄をかけて凶魅(きょうみ)を防いだ。(ただし、現存する「山海経」にはこの記述はない) 中国では年末年始は一年の変わり目の時期であり、冬から春に転じる時で変化が大きく、疫鬼(えきき)が民に病や災禍をもたらすとされた。そこで疫鬼を駆逐し、古い年を送り、新たな年、春の陽気、吉福を内に迎えた(「後漢書」礼儀志中に記載)。この歳事が日本に伝播し、次第に正月から立春前の節分の行事となったが、元々は旧暦の年越しの頃に厄払いとして行われた行事である。 一方、中国で古代から使われている十二支や式盤では、季節と方位は連関している。つまり、一年の境界である大晦日は丑寅間にあたり、丑寅間は東北の方角にあたる。鬼が出現する大晦日=丑寅間=東北=鬼の出現する門、鬼門となった。 東北鬼門の考え方は中国から伝播したものの、日本独自に発展している。陰陽道が日本に伝わり日本の神仏習合思想 と深く関わりをもつことで、日本独自の家相の発展とともに鬼門の観念も発展してきた。 陰陽道の最盛期といわれる平安時代中期頃から、病気や疾病、地震、火災、天災など、そのすべてを神の祟りが起こすものと考えられ、祟りを起こす神の存在を鬼に例えて恐れたことが大きな理由とされる。鎌倉時代前期に著された「陰陽道旧記抄」に「竈、門、井、厠、者家神也云々」とあり、竈、門、井戸、厠など、病気に直結する場所を神格化させ、諸々の宅神から祟りをうけぬよう祭祀を行っていた歴史があり、鬼の門と名の付く北東方位を他の方位方角より恐れる方位になった。
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