鬼門の発祥の地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/14 23:57 UTC 版)
十二支で鬼門(丑寅)とは反対の方角が未申であることから、猿の像を鬼門避けとして祀ったり、京都御所の北東角の軒下に木彫りの猿が鎮座し、鬼門に対抗し(猿ヶ辻)といわれ、築地塀がそこだけ凹んでおり、「猿ヶ辻」と称されてきた。京都御所の築地塀が鬼門、北東方位を凹ませてつくられていることから、「御所が鬼門を避けている」「除けている」と考えられ、それが鬼門を除ける手法とされてきた。東京芸術大学、東京工業大学名誉教授 清家清の著書 「現代の家相」には、「家相の教え通りに凹ませている」と書かれている。現代でも人々は縁起を担ぎ、家の北東、鬼門の方角に魔よけの意味をもつ、ヒイラギやナンテン、オモトを植えたり、鬼門や裏鬼門(南西)から水回りや玄関を避けて家作りをする場合がある。京都のNPO法人が2015年、京都市内中心部だけで、ビルや店舗、一般住宅など、約1100か所に鬼門除けがあるという調査が記述されている。四角く囲って玉砂利を敷いたり、ヒイラギ、ナンテンを植えている調査結果が発表されている。 京都御所の内部には鬼の間が存在していた。鬼の間とは、京都御所において仁寿殿の西、後涼殿の東にある清涼殿、南西隅の部屋であり、裏鬼門の位置にある。飛鳥部常則が康保元年(964年)に鬼を退治する白沢王像を描いたとされている。壁に描かれていた王は、一人で剣をあげて鬼を追う勇姿であり、それを白沢王といい、古代インド波羅奈国(はらなこく)の王であり、鬼を捕らえた剛勇の武将であると伝わる。順徳天皇が著した禁秘抄に絵の記述がある。 現在の建物(鬼の間)に、白澤王の絵は描かれていない。なお、明治時代の『禁秘抄講義』3巻上(関根正直著)に引用されている、江戸中期の随筆「夏山雑談」には、白沢王は李将軍、「白澤王」としても記されている。 つまり、京都御所、天皇家が鬼の災い、神の祟り(自然災害、火災、疫病の蔓延)を恐れて、築地塀を凹ませていた、という解釈より、逆に庶民に災いごとがふりかからぬよう、皇室が一手に猿ヶ辻の凹みで受けとめて、御所内部の清涼殿、鬼の間に導いて鬼を切り倒し、世の安泰を願っていた、そう解釈したほうが自然であり、現代でも皇居の間取りは公開されておらず、外から見ただけの塀の凹みだけを受けて、庶民が単純な考えで鬼門除けに繋がったと考えた方が理に適うと、家相を研究する小池康寿の著書で主張する。猿ヶ辻に関しても前述とは別に、御所を守護する日吉神社の神の使いが猿だったことから、「猿ヶ辻」と呼ばれるという説もある。
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