『類聚雑要抄』にある室礼
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画像09は12世紀前半の『類聚雑要抄』巻第二にある東三条殿(参考:東三条殿平面図)の塗籠を除いた寝殿・母屋から南庇にかけての室礼(しつらえ)の指図である。柱(黒丸)の列が横に3列描かれている。一番下の柱列が庇の外側の側柱(参考図:画側と入側)の列で、下から1/3ぐらいにある柱列が母屋南側の入側柱、一番上の柱列が母屋北側の入側柱である。なおこの指図の中の障子に限り太字で示す。 空間の仕切りをまず横の列を下から見て行くと、一番下の庇の南面、簀子縁側には四尺几帳が置かれている。何尺と書かれていなければ四尺几帳である。御簾は書かれてはいないが必ず掛けられる。 次ぎの列、母屋と南の庇の間の隔ても指図には省略されているが、文中に「母屋の簾、四尺几帳の高さに巻き上げる。鉤あり、おのおの壁代を懸ける」とある。この図を含む記事のタイトルは御装束とだけあり、何月のものかは記されていないが、壁代を掛けているので冬場ということになる。 図の一番上の北庇との間は押障子と鳥居障子(画像11)が交互に使われている。内裏の紫宸殿なら賢聖障子が填められている処である。はめ殺しの賢聖障子にも数カ所戸が付いていたが、ここでは鳥居障子(襖)がその役目を果たしている。 縦の列、つまり側面を見ると、母屋に置かれた帳の東(右)に棟分戸と書かれているのが塗籠の妻戸で、それを閉じて御簾を掛け、前に屏風が置かれている。屏風は文字には現れないが折れ線の記号で描かれている。帳の西(左)ははめ殺しの押障子で通り抜けは出来ない。内裏の紫宸殿ではこの位置には漆喰の白壁がある。南庇は両側(東西)を鳥居障子(襖)で仕切っている。この押障子と鳥居障子はパネルとしての障子、つまり建具である。建築図面にすると塗籠以外には壁の無い、柱だけの室内空間は実際にはこうしてカーテン状の障子、パネル状の障子で仕切って生活空間を作っていた。(同指図の「障子」以外については>室礼#『類聚雑要抄』にある室礼を参照)
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『類聚雑要抄』にある室礼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:55 UTC 版)
画像420は12世紀前半の『類聚雑要抄』巻第二にある寝殿の母屋と南庇にかけての室礼(しつらえ)の指図、今風に言えば「内装図面」である。図の上2/3ほどが母屋、下1/3ほどが南庇である。塗籠(後述)を除く母屋四間とその南庇が主人のスペースとして一体化して使われている。指図の範囲は100㎡強の広さである。(以下「母屋」とは塗籠を除いたこの図の範囲を指す) 母屋の間仕切りについては、北面は押障子(後述)と鳥居障子(後述:画像450)がほぼ交互に使われている。内裏の紫宸殿なら賢聖障子が填められている処である。はめ殺しの賢聖障子にも数カ所戸が付いていたが、ここでは鳥居障子がその役目を果たしている。 母屋の西面(左)は填め殺しの押障子で通り抜けは出来ない。内裏の紫宸殿ではこの位置には漆喰の白壁がある。母屋の東面、「帳」の右に棟分戸と書かれているのが塗籠の妻戸で、それが閉じられて御簾が掛けられ、前に屏風が置かれる。南庇は両側(東西)を鳥居障子で仕切っている。 平面図(画像110)にすると塗籠以外には壁が無いと言われる寝殿も、決してただのオープンスペースではなく、実際にはこうした取り外し可能、移動可能な建具で仕切られている(詳細は室礼#『類聚雑要抄』にある室礼を参照)。
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