『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条「土人」論争とは? わかりやすく解説

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『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条「土人」論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:19 UTC 版)

渤海 (国)」の記事における「『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条「土人」論争」の解説

正史四夷伝を始めとする中国史料を元に日本渤海や唐との交流得た渤海知識記載してある日史料類聚国史沿革記事には、靺鞨人の部落多く土人少ないと記載されている。 延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人村長大村都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領土地極寒、不宜水田。州・県や館・駅は無く、処どころに村里有るだけで、みな靺鞨部落である。その百姓は、靺鞨(人)多く土人少なく、みな土人を以て村長とする。大村(の村長は)都督と曰い、次は刺史と曰い、その下の百姓は、みな首領曰う土地がらは極めて寒く水田宜しくない。 — 類聚国史巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五四月戊子中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります日本後紀/卷第四 そこで、現在土人解釈めぐって論争となっている。沿革記事は本来は840年完成した日本後紀』の文であったが、『日本後紀』巻四が散逸したため、現在は『類聚国史』のみ伝えられている。日本敦賀渤海南京南海府(中国語版)を結んだ海路利用して入唐した遣唐留学永忠が、渤海経由した際に得た渤海内情見聞をまとめた永忠書状これまでの日本朝廷渤海との交渉通じて得た情報及び唐との交渉得た情報及び中国の正史古典を基に沿革記事作成されたが、この沿革記事により『旧唐書』『新唐書』中国史料では曖昧だった建国年が698年であることが決着するなど(796年大嵩璘日本に齎した国書に「後以天之真宗豊祖父天皇二年、大祚栄始建渤海国」とあり、渤海の建国年が698年であることが明らかになった)、記事は正確で信頼性が高い、とされている。 韓国・北朝鮮研究者 土人高句麗人説 土人高句麗であれば多数靺鞨に対して少数高句麗人が支配層形成していたことになるため、当然韓国・北朝鮮研究者土人高句麗人を主張しており、朴時亨は「元来日本人には渤海高句麗人の国として知られていたため、かれらが土人記したのはいうまでもなく高句麗人」と主張している。 土人高句麗系説 李龍範(朝鮮語: 이용범、東国大学)は、『類聚国史記事にみえる土人」は高句麗系を意味し、「百姓」は、高句麗系をいう「土人」と対比すれば靺鞨多く刺史より小規模行政単位の長を指称している、と主張している。 処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人村長大村都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領土地極寒、不宜水田所々村里があり、みな靺鞨部落で、その百姓靺鞨多く高句麗系人)土人少ない。みな土人村の長になり、大村都督といい、次を刺史といい、その下の村落百姓首領呼ばれている。 — 類聚国史巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五四月戊子条 盧泰敦(朝鮮語版)(朝鮮語: 노태돈、ソウル大学)は、『類聚国史』に記録されている「土人」は、高句麗集団営州から移ってきた靺鞨集団から構成され中心となった高句麗集団靺鞨集団融合する形で「土人」即ち渤海人形成されたと主張している。 中国研究者 中国研究者では、厳聖欽が1981年発表した論文では、「渤海国大多数居民靺鞨族。『処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人村長。』大日本史記載是:処々有村里。大抵靺鞨部落。以高麗人村長土人高麗人确定无疑、而靺鞨人正渤海主体民族。」としており、土人高句麗人説がみられたが、1982年以後このような理解対す批判中国研究者から示されている。中国研究者は、細部では意見の相違はあるが、「土人」とは「土着の人」の意味で、沿革記事特定の地域、すなわち率賓府対象したものであり、率賓府古くから定住している原住靺鞨と、高句麗滅亡後混乱から新たに移住した靺鞨との相違あらわしており、「土人」とは「土着の靺鞨の意味であるとか、靺鞨および高句麗人が融合した渤海人渤海族という概念設定して理解している。 土人士人士人官員)説 韓東育東北師範大学)および劉毅遼寧大学)は、「土人」は脱字であり、実際は「士人」(士人官員)であると主張している。なお、大系本『類聚国史頭注に「土、大永本伊本大本作士、下同」とあり、土人士人とする写本もある。士人であれば靺鞨人は人数的に絶対的優位占めという事実は、靺鞨人が士人官員)の隊中の大部分占めていたということになる。 土人粟末靺鞨人説 王成国は、沿革記事から、渤海居民靺鞨主体であり、粟末靺鞨統治者地位にあったことが知られ渤海粛慎故地創建され、その後また挹婁故地とも称しており、そこで日本人粟末靺鞨人をさして土人としたのである、と主張している。また、成国は、粟末靺鞨靺鞨七部なかでも少数あたっため、「土人少。 」という沿革記事合致していると主張している。 土人粟末靺鞨人説 楊軍は、『類聚国史記事から渤海靺鞨人が主体で、粟末靺鞨人が統治者であることがわかり、また渤海粛慎故地建国し、その後挹婁故地とも称しており、そこで日本人土人粟末靺鞨人と理解したと、土人高句麗人を批判して土人粟末靺鞨人説を唱えている。 土人建国中心となった粟末靺鞨人を主体とする渤海人説 張博泉と程妮娜は、土人建国中心となった粟末靺鞨主体とする渤海人とする説を主張している。 土人本来の意味は「土着の人」であり、渤海挹婁故地建国されたので(『新唐書』渤海伝に「保挹婁東牟山」とあることによる)、「土着の人」とはまさにそこに代々居住している靺鞨人である。 しかしながら文中明確に靺鞨人と土人とは別とされており、明らかに土人とは当地土着民族=靺鞨人を指しておらず、ここの土人は本来の意義失っている。 渤海の建国当初渤海人当地靺鞨人に比して少数であり、すなわち土人とは渤海建国前後の粟末靺鞨主体として他の部を融合して形成され渤海人である。 土人=率賓管内居住する靺鞨人説 劉振吉林省博物館英語版))は、土人高句麗人説を批判している。そして、「率賓人」という表現用いており、それは「率賓府管内居住する靺鞨人」という意味と理解されこのような特定地域対象としていると理解する主張根底には、鈴木靖民1979年発表した沿革記事は旧高句麗領域日本道通っている粟末靺鞨あたりの地域対象として記述しているのではないか、とした意見影響みられる沿革記事は、渤海赴いた日本人使者見聞資料となっており、日本人使者実際に見聞したのは、「土地極寒、不宜水田。」などの記事から率賓一帯早期状況である。 「土人」とは、本土の人を意味するまた、文化度が相対的に低く獰猛な人を意味し沿革記事は、姓をもつ官人百姓)には靺鞨人が多く、率賓人が少ないことを述べている。 高句麗人は「土地極寒、不宜水田。」地帯土着のではなく、「土人」は「文化的に相対的に低く性格獰猛な者」とみなす場合高句麗人の文化発展程度靺鞨人よりも高い。また、高句麗には早くから城池宮闕があり、「無州県館駅」とある沿革記事は不自然であり、土人=高句麗人説は成り立たない土人高句麗滅亡後移住してきた靺鞨人に対する原住靺鞨人説 国忱(黒竜江省文物考古研究所)と魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、土人は、高句麗滅亡後混乱によって移住してきた靺鞨人に対する原住靺鞨人を指しているとの見解であり、考古学研究成果援用している。 渤海に来た日本使節政府の代表であり、靺鞨人と高句麗人との区別がつかないわけがなく、菅原道真当時日本重要な官人学者であり、渤海使との交流もあり、渤海高句麗については十分に理解し土人の語を高句麗人に用いるはずがない土人がもし高句麗人であるなら、高句麗人と直接書くはずである。 日本人使者往来利用したのは東京経過する日本道であり、南海府(中国語版)を経由した場合も、いずれも「率賓の故地」であり、みな高句麗故地ではない。 『類聚国史記事極寒、不宜水田。」は、渤海中偏北部地区状況述べており、この地域土人とは沃沮人および挹婁であって高句麗人ではない。 上京およびそれ以外の地域における考古学の発掘調査でも典型的な高句麗時代遺構発見されておらず、高句麗人が住んでいない証拠であり、すなわち土人高句麗人ではない。 渤海建国後多く靺鞨部落帰服し、因って部落移動起こった震国初興地区靺鞨故地であり、やがて拡大高句麗旧領域を占有した。ただしここは人口稀少であったが、要路沿道住み着き当地の原住靺鞨人と同所生活し、「皆靺鞨部落となった。後から移住した靺鞨人は比較多く、原住靺鞨人は比較少ないが、原住靺鞨人は久しく居住しており、当然「土人」である。さらに、多く農業従事し一定の経験および技術をもち、文化的にも高いため、下級基層管理人には移住してきた靺鞨人が多いが、原住靺鞨人は少数とはいえ、高級官職にすべて任命され、これが「皆以土人村長。」の意味である。 あらゆる面からみて、「皆靺鞨部落」である以上は、土人包括するすべてが靺鞨人である。 土人靺鞨人でもなく、高句麗人でもなく、彼らが融合して形成され渤海族。 孫進己は、渤海主体民族にについて、靺鞨人説、高句麗人説、若干の族の融合した渤海民族とする三説の紹介後、土人渤海人渤海民族とする説を主張している。 沿革記事土人は、渤海統治民族であり、靺鞨相対立する存在であって明らかに靺鞨ではない。 渤海土人とはまさに渤海人であって高句麗人ではない。 土人とは、粟末靺鞨はじめとする靺鞨諸部族および高句麗遺民などの多民族から構成される渤海人である。 土人靺鞨人と対称されているので、靺鞨人ではないが、高句麗人と決めつけることもできない沿革記事796年記されたものであり、渤海建国後100年経過しており、渤海はすでに自己の民族形成しており、何故「土人」を渤海人とすることができず、滅亡後100年経過した高句麗人としなければならないのか。 渤海形成過程起点は、渤海建国時に高句麗人が渤海国民の一部とされた時にあるが、当時高句麗人は未だに粟末靺鞨にとけ込んでいないが、大暦八年773年)を境に、それまでの「渤海靺鞨」という名称から、「靺鞨」の号が取れもっぱら渤海」とのみ称しており、融合完成すなわち渤海族が形成されたことを意味する796年当時の状況を記す沿革記事は、渤海形成後の記事であり、渤海統治民族渤海族を称して土人」とし、粛慎払涅靺鞨鉄利靺鞨率賓府などの靺鞨部落が被統治民族であることを述べている。 土人高句麗人とする見解理解できない。何故なら、渤海粟末靺鞨によって建国されたのに、みな高句麗人が都督および刺史となり、粟末靺鞨都督および刺史とならないのか。渤海民族は盛晩期形成されたもので、沿革記事初期の状況示しているという主張があるが、『類聚国史』の記載は、渤海建国後すでに100年以上経過した盛期述べたものであり、渤海族はすでに形成されている。 孫進己の主張に対して石井正敏は「渤海族という概念、及び靺鞨との関係が不明確であるだけでなく、そもそも沿革記事を七九六年(延暦十五当時の記録理解して論述されていることに問題があろう」と評している。 土人原住民王健群(吉林省文物考古研究所)は、同じ靺鞨のなかに、土着靺鞨高句麗滅亡後移住ないし逃散して新たに加わった靺鞨がおり、土着靺鞨土人であり、これ以外の解釈はできず、土人高句麗人という解釈何を典籍にしているのか分からない主張している。 「土人」とは当地居民ないし原部落の意味で、それ以外解釈は無いが、南北国時代論者強硬に土人」はすなわち「高句麗人」であると主張している。 『新唐書』黒水靺鞨伝「王師平壤、其衆多入唐、汨咄、安居骨等皆奔散、浸微無聞焉。」、『旧唐書』渤海靺鞨伝「祚榮驍勇善用兵、靺鞨之衆及高麗餘燼、稍稍歸之。」とあり、靺鞨部落民散逸したことから、多く靺鞨部落民は本来の部落離れて新し部落投じ新し部落に来帰した者は、もとの部落の名称を失い、ただ靺鞨通称するのみであるが、当地原住民土人)は原部落人の名称を保持する部落酋長世襲であり、新たに当地に来帰する者が多くなっても、当地部落酋長依然として首領であり、これがすなわち「皆以土人村長。」の理由である。 『類聚国史』の編纂者菅原道真状況述べた在唐学問僧永忠らは漢学教養があるため、高句麗状況をよく理解しており、同じ記事のなかで高句麗滅亡情況述べている菅原道真らが、高句麗人を土人称するはずがなく、さらに、もし村長がみな高句麗人であるならば、何故故に直接「皆以高麗人村長。」と書かないのか。土人高句麗人であるならば、直接高句麗人」と書くはずである。 土人高句麗人説 優翰は、中国研究者とは異なり、やや土人高句麗人説に近い意見示している。 『類聚国史記事は、日本人渤海初期の状況記したものであり、渤海平民靺鞨人であり、上層官吏はすべて「土人」であることが知られる。 「土人」の本来の意味は、もとの土地の人であり、渤海国土は旧高句麗北部である。土人渤海上層について述べており、その大部分粟末靺鞨高句麗附する者と高句麗人である。 日本の研究者 土人高句麗人説 石井正敏は、土人高句麗人説批判論者には、渤海高句麗故地復興したということ当時日本人認識であるという視点欠けており、沿革記事冒頭渤海国者、高麗故地也」とある「高麗故地」という前提では土人高句麗人が無理のない解釈であり、同じ靺鞨人を一方は「靺鞨」、一方は「土人」と表現したとする解釈には無理がある、と主張している。 「大祚栄(あるいは父の乞乞仲象も)が粟末靺鞨人であることは間違いない」という前提のもと、大祚栄はじめ渤海王家はかつて高句麗所属していた靺鞨人、いわば高句麗靺鞨人(靺鞨高句麗人)であり、日本には渤海朝貢国とみなすために高句麗後身位置づける必要があったという政策考慮すべきであるが、日本人渤海高句麗継承者あるいは渤海支配層高句麗人と認識したのは、渤海王家や支配層高句麗化した靺鞨人という認識があり、渤海支配層高句麗化が高かったことが「土人」と「靺鞨」の区別表記となった沿革記事は、『日本後紀渤海伝ともいえる性格記事であり、正史四夷伝を始めとする中国史料を参考に、渤海あるいは唐との交流得た情報基づいており、「土人」は高句麗人を指し、「百姓」は百官役人の意味用いられ、「首領」は中央および地方をとわず下級役人総称であり、在地では村長都督刺史)のもとで庶務にあたる階層指し在地首長から任命されている。 百姓百官役人の意味用いられており、土人である高句麗村長都督刺史)のもとで在地支配あたった靺鞨人首長を首領総称したという意味となり、地方都督刺史多数首領から成る支配構造であり、高句麗人(高句麗靺鞨人あるいは靺鞨高句麗人)が上層支配階級であることを叙述している。首領層の位置づけは、地方では在地首長であった理解してよいが、首領とは在地首長総称だけでなく、渤海使みられる首領注目すれば、中央および地方をとわず下級官人層の汎称ではないか考えられる延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人村長大村都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。州や県(といった地方)には館や駅(といった宿駅施設)はない。処々村里があるが、それはみな靺鞨人の部落である。部落役人には靺鞨人が多く任用され、土人すなわち高句麗人(高句麗靺鞨人・靺鞨高句麗人)は少ないが、村長として支配にあたるのは少数高句麗人である。大きな部落村長都督といい、次に大きな部落村長刺史という。村長の下で庶務にあたる役人首領総称している。 — 類聚国史巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五四月戊子土人高句麗系説 大隅晃弘は、百姓とは百官の意味用いられており、在地靺鞨部落首長層であり、彼らは首領呼ばれた、と解釈している。 百姓は、この時代、唐および日本では庶民をあらわす語句であったが、その語源は「古、有徳の人を官に任じて姓を賜った故事由来百姓とは本来は官吏をあらわす語句であり、中国古典通じていた渤海人こうした用法知っていた可能性は十分ある。 皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人村長大村都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。これらの部落百姓すなわち姓を有する在地首長は、靺鞨人が多くて土人高句麗人は少ない。しかし幾つかの部落中心となってこれらを統轄する村の長は、みな土人高句麗人である。そのうち支配単位となる大きな村の長都督と言い次の規模村の長刺史と言う。これらの統轄下で在地靺鞨部落統率している百姓首領という。 — 類聚国史巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五四月戊子土人渤海人浜田耕策は、「渤海国大祚栄高句麗故地建国し、713年に唐から册封受けた国家であること、また、渤海社会処々村里があって、靺鞨人が多く渤海人は少く、これらの部落では、渤海人がその村長となっており、この村長部落では首領とも呼んでいた」と解釈している。 土人渤海人池内宏は、「玆に土人とあるは治者階級立て渤海人指したるなるべく、治者たる渤海人被治者たる靺鞨との関係は、朝鮮両班平民に於ける如くなりなるべし」と述べている。 土人高句麗人説 森田悌は、承和年来渤海使もたらした咸和十一年閏九月二十五日太政官中台省牒(渤海三省1つである中台省の牒)に記述している渤海使一行105人の内訳「使頭(大使一人、嗣使(副使一人判官二人録事三人訳語二人史生二人天文一人大首領五人二八人」の「大首領六十五人」の記述手がかり見解述べている。 咸和十一年中省牒にみえる大首領」は、「船の漕運当る水手にあたり水手は、日本場合一般百姓任命されていることを参考にすると、沿革記事首領は、その本義である組織・集団の長であり、中国人蕃国の王あるいは首長層を呼称する際の語法には悖るものの、百姓庶民)の意にとってよいのではないか渤海の首領も本義を離れて百姓意味する語に変質したのではないだろうか。渤海においては百姓首領と呼ぶ習慣があり、沿革記事そのようなあり方示していると考える。 渤海内で首領呼ばれるのは官人首長ではなく百姓であり、渤海では広域行政単位大村)に都督、より規模小さ行政単位刺史がおかれ、それらには土人たる高句麗人が任用靺鞨からなる首領百姓支配し、あえて推測するならば、渤海使首領にも多く靺鞨起用されたのではないか土人=その土地の人 姜成山は、『史記』から『新唐書』に至る中国史料の「土人用語の使用例から、土人=その土地の人であると主張している。 沿革記事840年代成立の『日本後紀逸文であり、当該記事773年前後情報とみられ、891年成立の『日本国見在書目録』「正史家」三〇によれば『旧唐書』『新唐書』記載がないため、当該記事成立時点『旧唐書』『新唐書』参考されていないことは明らかであるが、『旧唐書』『新唐書』は、唐代官撰史料起居注』『実録』を援用して編纂されたとみられ、『日本国見在書目録』「雑史家」には『唐実録』『高宗実録』、『日本国見在書目録』「起居注家」には『大唐起居注』とあり、『旧唐書』『新唐書』編纂する際に参考した原史料を『日本後紀』の編纂者参考にした可能性が高いが、沿革記事の「延袤」「朝貢不絶」などの用語は、『隋書』巻八二林邑伝との類似性指摘されており、『隋書』沿革記事作成においてもっとも参考にされた可能性が高い。 『史記』から『新唐書』までの各正史における「土人」の用語は使用例は、『隋書』では三つしか用例がない。すなわち巻三一地理志下屈原五月望日汨羅土人追至洞庭不見湖大船小、得済者、乃歌曰:『何由得 渡湖』因爾鼓争帰、競会亭上、習以相伝、為競渡之戯。」、巻八一靺鞨伝「皇初、相率遣使貢献高祖詔其使曰:『朕聞彼土人多能勇捷、今来相見、実副朕 懐。朕視爾等如子、爾等宜敬朕如父。」、巻八一・流求國伝「歓斯氏、名渇剌兜、不知由来有国代数也。彼土人呼之為可老羊、妻曰多抜荼。 所居曰波羅洞。」である。『隋書』三一地理志下春秋時代屈原由来熙平郡の習俗について述べた箇所では、「土人」は汨羅の意味使用されている。その他の二つの「土人使用例は、巻八一靺鞨伝および琉球伝であるが、ここでもその土地の人という意味で使用されている。 日本史料『田令』には、「凡給田。非其土人、皆不得狭郷受。」とあり、古代日本給田制度ではその土地の人でなければ面積が狭い地域では土地受けられない規定があり、土人であるならば、狭郷であっても国家在地社会人々権利与えている。この事例から、国家から在地社会における地位保障され、その地の居住者を「土人」と解釈するならば、「土人」とは、国家緊密な関係をもつ在地社会の人であり、「土人」を「その土地の人」と解釈するのが妥当である。

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