渤海の首領とは? わかりやすく解説

渤海の首領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:19 UTC 版)

渤海 (国)」の記事における「渤海の首領」の解説

史料乏し渤海研究にとって、国家構造社会構造解明至難であるが、注目されるのは、『類聚国史巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五四月戊子条の記事である。 渤海国者、高麗故地也。天命開別天皇七年高麗高氏、為唐所滅也。後以天之真宗豊祖父天皇二年、大祚栄始建渤海国和銅六年、受唐冊立其国。延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人村長大村都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領土地極寒、不宜水田。俗頗知書。自高氏以来朝貢不絶。 — 類聚国史巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五四月戊子中国語版ウィキソースに本記事関連した原文あります日本後紀/卷第四類聚国史殊俗部・渤海上に『日本後紀編者渤海初期の粟末社会を首領中心に描く記事があり、『続日本紀』の引く渤海使託した渤海への外交文書に、相手渤海国王に次いで官吏百姓」または「首領百姓」とする表現などにより、「首領」と呼ばれる存在とその配下大多数の「百姓」を基礎とした渤海社会成り立ち分かる石井正敏は、『類聚国史巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五四月戊子記事が『日本後紀』の逸文であること、その編者による渤海新出の条における沿革記事であることを明らかにしたが、この記事は、渤海建国年を決定する情報含まれているだけでなく、渤海地方社会構造記され渤海研究にとって最重要史料一つである。しかし、その読解難しくとりわけ「其下百姓皆曰首領。」の一節難解なため、多く研究者読解挑戦様々な首領論を展開している。「大村都督、(大村都督と曰い、)、」以下の解釈意見分かれており、一つ李龍範(朝鮮語: 이용범、東国大学)および金鍾圓(朝鮮語: 김종원、英語: Kim Chong-won、釜山大学)の解釈であり、大村長官都督) - 次長官刺史) - 其下(長官首領)の三級から成る地方行政組織説明したものとするが、最後部分解釈は、李龍範は、其の下の百姓の長を首領呼んだ解し、金鍾圓は、其の下の長を百姓首領呼んだ解すもう一つ朴時亨および鈴木靖民解釈であり、大村 - 次二級であり、「其下百姓首領。」は、それらの治下にある百姓都督刺史総称して首領呼んだ解するが、鈴木靖民は、この記事以外の渤海使関係史料から都督刺史下位地方長官として首領存在することを論じており、この点は李龍範および金鍾圓と意見同じくする。 渤海研究者は、唐代史料周辺諸国および周辺諸民族関係記事頻出する首領」の用例から、「中国から四夷首長層を指す語」「いわゆる王にあたる一国一種族の首長か、それにつぐ有数首長層ないし政治的支配層を指す中国王朝側の用語であり、かれらは中国からよりその支配領域を府や州として認められそのまま都督刺史任命される存在」「中国の正史四夷伝や『冊府元亀外臣部にはしばし首領なる呼称見られるが、これは異民族の長に対して中国側が附した一般的な名称であり、これは渤海あるいは靺鞨限らない」という理解をしてきた。 727年最初渤海使上陸地で大使など失い平城京入った時の代表は「首領」であり、841年渤海使構成宮内庁書陵部壬生家文書中台省牒(渤海三省1つである中台省の牒)写しにみると、105人中首領」(大首領)が65人と半数超え716年以後の唐への「朝貢使」にも「首領」(大首領)がしばしば加わっている。「首領」とは渤海固有語ではなく国際語としての漢語であり、渤海各地多様な集団支配者を指すが、地域集団多数住民組織し生産物管理分配して統制し渤海国服属して以後生産経済活動維持主とする伝統的な支配秩序そのまま承認され外交交易にも関わったとみられる824年藤原緒嗣渤海使本質を「実にこれ商旅」と非難して以後は、派遣12年1回制限したが、その後一行過半数首領占めており、首領たちは自らの支配地で獲得した毛皮などの特産物交易品として携え上陸地の北陸など日本海側平城京あるいは平安京の客館などで公私交易をおこなっており、日本から渤海贈られた「回賜品」の大半首領与えられることが規定されていたた(『延喜式大蔵省)。渤海から唐への遣唐使は、王族首領、臣・官吏分けられ、うち首領大首領)は8世紀前半までで、以後姿を消すが、この変化渤海靺鞨諸部族支配拡大過程対応関係にあり、首領たちは地方官制整備にともない、府、州、県レベル官吏への身分上昇遂げた渤海朝貢最初期から唐に「就市=公的交易」を要請し毎年、市での名馬交易鷂の歳貢王子らによる熟交易などの交易本位外交続けたが、その主要な担い手首領層である。渤海政権首領層の盛んな生産・流通機能対外的交易活動包摂利用し首領頂点とする社会秩序社会経済組織をもとに、中華式の支配機構律令制組み合わせて国家骨格をつくり、渤海首領層が荷った交易活動外交との絡み活用した国家という一面特質として指摘できる浜田耕策は、首領とは「種族の頭」の意味解釈され種族構成員間には、擬制血縁関係紐帯として結合されていたと推測し首領にはそれぞれの種族固有の語音の名称があり、これが中国統治者記録者からみれば、「首領」と漢訳される。「首領」の種族語音音写し種族固有の音を残した表記では、靺鞨諸族の後身に当たる契丹語音では、「舎利」がこれに相当し契丹歴史叙述した遼史巻一一六の「国語解」の「舎利」とは「契丹の豪民の頭巾を要裹する者、牛駝十頭、馬百疋を納むれば乃ち官を給す名づけ舎利という」とある「舎利」であり、『五代会要中国語版)』巻三十渤海には渤海の建国の祖たる乞乞仲象を「大舎利乞乞仲象」と記録し舎利とは首領意味する靺鞨語音写表記であり、『冊府元亀』巻九七五には、741年2月越喜靺鞨の「部落の烏舎利」が唐に賀正使として派遣されたと記録され、『冊府元亀』九七一にも「其部落舎利」と記録されており、『新唐書』四三下の地理志には、安東都護府統括された九都督府一つ舎利州都督府があり、『契丹国志』巻二にも「舎利萴刺」や「萴骨舎利」などと、人名接尾や接頭にあらわれており、舎利靺鞨広くみられる種族語の音写であることが頷ける、と指摘している。これに対して河内春人は、舎利渤海在地首長である首領同音異字であるとする見解があるが、唐は、首領という語句新羅および国内地域集団指導者に対して用いており、「舎利」を中国人が「首領と書きとったとするのは難しい、と指摘しており、『遼史国語解には、「契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名舎利。」とあり、契丹属して家畜一定納める者に舎利授けられたことがわかり、『資治通鑑長興三年三月条には、「有契丹舎利萴剌與惕隱、皆為趙德鈞所擒。舎利・惕隱、皆契丹管軍頭目之称」とあり、舎利契丹における軍事指導者であることがわかり、契丹靺鞨において首長を指す言葉は、唐初までテュルク語勇者をあらわすバガトルからくる賀弗」「弗」「瞞咄」であり、「賀弗」が軍事指導者の意味有し舎利軍事指導者であるならば、同一階層である蓋然性高く、「賀弗」と「舎利」が同一階層であることを示す史料存在しないが、唐初まで「賀弗」と称され首長は、その後政治的整備から「舎利」という官を有するようになった考えたい、と述べている。 渤海生業は、高句麗および南部靺鞨農耕北部靺鞨諸部族狩猟中核であり、北部靺鞨諸部族地域は、『類聚国史沿革記事にみえる中央から派遣される支配層土人」と一般民衆である靺鞨とがわけられ、間接支配おこなわれていた。こういう形態場合、「土人」と靺鞨同族意識をもって融合するのは難しく渤海建国以来支配層である高句麗人および南部靺鞨融合することは有りえても、被支配層である北部靺鞨高句麗人および南部靺鞨融合せず、北部靺鞨から反発があった場合渤海分裂しかねないが、そのような事態渤海末期まで発生しておらず、それは、渤海支配層が被支配層である北部靺鞨諸部族支持得ていたからであり、「首領制」という渤海独自の在地支配方式要因がある。「首領制」という用語をはじめて使用したのは鈴木靖民である。鈴木靖民は、首領靺鞨諸部族の「部落」と呼ばれる地域割拠する在地首長であり、伝統的な旧来の在地支配権そのまま承認され部落成員たる「百姓」を統属、かつ地方官人をはじめとする官僚外交使節随員にもなった、と理解した換言すれば、渤海王は、靺鞨諸部族支配するにあたり、その在地社会解体することなく在地首長を「首領」と名づけ支配権認め、「首領」を官僚外交使節随員という形で渤海国家のなかに包摂国家的に再編成することにより、はじめて人民支配貫徹することができたのであり、渤海首領層を媒介にして靺鞨人々を間接支配し首領層も利益維持のために呼応した、と考えた鈴木靖民は、こうした渤海国国家および社会特徴づける首領特有のあり方媒介とした、間接支配体制を「首領制」と呼ぶことを提唱した河上洋は、高句麗の城支配体制あり方と『類聚国史沿革記事にみえる渤海社会あり方との類似性指摘し渤海地方支配体制高句麗継承関係にあると考え高句麗在地首長の官「可邏達」が渤海の「首領」に相当する推定し渤海在地勢力解体することなく在地勢力依拠して支配及ぼした主張した大隅晃弘は、鈴木靖民河上洋の渤海在地支配体制理解支持し渤海靺鞨支配進展と「首領制」の成立関連づけ、唐あるいは日本との交易によって得られる首領利益大きさ指摘し渤海交易独占したうえで首領をその利に与らせたことが渤海王支配貫徹の主要因であったとの見解示した石井正敏は、承和年来渤海使もたらした咸和十一年閏九月二十五日太政官中台省牒(渤海三省1つである中台省の牒)には、渤海使一行105人の内訳明記してあり、「使頭(大使一人、嗣使(副使一人判官二人録事三人訳語二人史生二人天文一人大首領五人二八人」とあることから、大首領は、小首領といったものとの対称ではなく首領美称であろう、と指摘しており、その65人という数値渤海の州数と一致することから、鈴木靖民は「(首領支配下土地からの産物が(日本への)朝貢となって徴集されたのではなかろうか」「首領一州につき一人といった割合選抜され」たのではなかろうか論じている。李成市は、「首領とは、渤海領域内の靺鞨諸部族中でも在地社会支配者として君臨する者たちで、渤海王は彼らを包摂し、これを国家的に再編することによって集権的な支配可能にしていたと推定されている」と指摘しており、首領日本への遣使に参加していた背景には、元来靺鞨諸部族それぞれ単独で唐あるいは新羅などの周辺諸地域交易をおこなっていたが、8世紀半ば以降靺鞨諸部族渤海王包摂され、対外活動停止したが、渤海王包摂された靺鞨諸部族活動渤海対外戦略拘束されざるを得なくなり、さらに、渤海8世紀以降一貫して新羅とは敵対戦略をとり、新羅との通交途絶したことにより、狩猟漁撈生業とし、遠隔交易従事していた靺鞨諸部族行動著しく狭め地域的に新羅隣接する南部靺鞨諸部族にとって、新羅との交易歴史有する活動であり、これを補うかのように渤海は、靺鞨諸部族積極的に唐あるいは日本への遣使に参加させることにより、靺鞨諸部族従前権益保証した、と主張している。金鍾圓(朝鮮語: 김종원、英語: Kim Chong-won、釜山大学)は、『類聚国史』の記録を在唐学問僧永忠見聞録一部とし、高句麗遺民比較的多い地域では州県制施行されていたであろうが、靺鞨族が集団居住する地域では部族制(部族自治制)が施行されていた、とみた。金東宇(朝鮮語: 김동우、国立春川博物館英語版))は、渤海の首領を地方官官僚、そして遣日使下級随行員の三者区分し宣王大仁秀以後下級随行員のように首領地位下落した理由は、中央の首領政治制度次第整備されるにつれ、首領称号代わり別の官職名官爵名で呼ばれ地方首領は、その独立的地位以前よりも制約加わったからだとした。宋基豪(朝鮮語: 송기호、英語: Song Ki-ho、ソウル大学)は、渤海の首領は中央政府から官職や官品を受けない勢力で、独自性強く維持していた在地支配者であって官職体制にあったとみた。真淑(朝鮮語: 박진숙、忠南大学)は、首領現地人である都督刺史のもとに置かれ存在であって地方民を統治する一定の権利付与され地方末端官吏とし、都督刺史および県丞と同じく首領もまた中央より任命されであろうとみた。朴時亨は、百姓は「一般にいう庶民」であり、首領は「特別な現任官職のない、いわば後世における朝鮮の『両班』にあたる」と主張している。張博泉と程妮娜は、百姓のなかにあって土人靺鞨人の地位には差があり、「首領」とは、氏族長あるいは部落長を指し都督および刺史とは、「首領の上位の地方長官のことであり、一般に都督および刺史らは品階身分貴族であった、と指摘している。 李成市は、渤海を独自のエスニック・アイデンティティ(民族意識)をもつ高句麗人と靺鞨からなる多民族国家とする見解示したうえで、渤海は、従来より独自の対外交易をおこなっていた靺鞨諸部族包摂するにあたり、独自外交遮断する代わりに在地首長である首領渤海の対唐および対日使節団恒常的に参加させることにより、対外交易便宜および安全を供与し靺鞨諸部族懐柔し、靺鞨対す対外通交管理こそが渤海国家支配要諦であるとし、対外通交は単に経済的行為であるばかりか政治支配根幹関わり渤海対日遣使団である渤海使760年代を境に経済目的化しているようにみえるのも、こうした渤海靺鞨諸部族支配あらわれであると主張した李成市の「首領制」は、渤海北部靺鞨諸部族支配進展渤海使経済目的化時期とが重なること、渤海使使節団過半数首領占めており、日本からの回賜総量半分以上首領にわたること、狩猟および漁撈民はその生産物農耕民との交換必要性があることから交易民でもあること、渤海同様に東夷諸族の世界建国した高句麗および新羅も多民族状況有し自律性のある諸民族統合する原理として中国文明導入したこと、日本海側靺鞨がその前身一つである濊以来遠隔地交易民であること、渤海国衰退期新羅国境付近靺鞨独自に新羅との交易求めたこと、渤海滅亡後における旧渤海領域女真族高麗王朝活発に交易したことなどを根拠としており、この仮説に従うならば渤海交易保証ができている間は、北部靺鞨諸部族安定支配ができたことになる。古畑徹は、「首領制を基礎とする多民族国家としての渤海という捉え方は、この地域における民族国家あり方歴史的変遷のなかに位置づいていて、非常に説得力のあるものになっているいいかえれば、渤海の首領制は、李氏によって東夷諸族の大きな歴史の流れのなかに位置づけられたことで、渤海国家社会理解するうえでの最も有力な仮説成長した評してよかろう」と述べている。 石井正敏は、「其下百姓皆曰首領」を「其ノ下百姓ヲ、ミナ首領ト曰フ」と訓じて、「百姓」を百官役人の意とし、都督刺史という村長の下の役人靺鞨人首長を首領総称した、という解釈提示し首領制を支持している。一方李成市強調する在地首長自体渤海使一員となって来日したとすることには否定的であり、渤海使史料登場する首領は、日本遣唐使でいえば、知乗船事、造舶都匠、船師水手長、船匠、柂師、挟射手などに該当し幹部クラスより下の下役人総称解し首領在地首長層の総称だけでなく、中央政府および地方政府をとわず下級官人層の汎称ではないかという理解提示しており、首領国家交易団への再編渤海国家支配要諦とみなす首領制論には批判的である。古畑徹は、「この石井氏論理展開確かに見事であるが、氏自身述べるように、日本では百姓』の語は一貫して普遍的支配身分呼称として使用され役人の意味解する同時代事例がないという大きな欠陥存在する石井氏は『類聚国史渤海沿革関係記事の『百姓』を渤海における用例とみる可能性指摘するが、日本の人々に対して渤海の『首領』を解説する文章渤海独自の用語が使われ、これについて何の説明もないというのはいかにも不自然である。その意味で、この石井氏解釈未だ決定打とはいえない」と評している。 森田悌は、「首領」について、二度わたって論じているが、前説と後説では見解異なり前説は、咸和十一年閏九月二十五日太政官中台省牒(渤海三省1つである中台省の牒)にみえる六十五人大首領記事から、首領渤海使水手解し水手一般に百姓庶民であることから、首領その本義を離れ渤海内で百姓クラスを指す用語に変質した考え、「其下百姓皆曰首領記事を、「ソノ下ノ百姓ヲ皆、首領ト曰フ」と訓じ、百姓首領解し換言すれば、百姓一般庶民説であり、首領制論とは対立する。後説は、「其下百姓皆曰首領記事を、百姓首領解する見解維持するが、渤海編戸制おこなわれており、複数の自然家族から成る戸を統率する戸主庶民階層属することを根拠にして、首領戸主という新見解を提示し、戸を戸口部曲および奴婢属す大組織と解し官吏解さない点を除けば首領戸主説は首領制論の社会構造に近い。また、咸和十一年閏九月二十五日太政官中台省牒における首領解釈にも若干変更加え水手をはじめ船内諸役従事する者という見解示している。古畑徹は、前説を「『大首領』を水手解する点などに問題残り渤海研究者大方の賛同得られなかった」、後説を「首領戸主説と船内諸役従事する者との関係が不明瞭で、論理自体わかりにくい点が多く依然として渤海研究者からはほとんど賛同得られていない」と評している。石井正敏は、「そもそも首領水手とすることに問題があるのではなかろうか。すなわち遣日本使の首領水手とすると、明らかに船員意味する工がすでに二八人も乗り込んでいるので、一行一〇五人のうち九三人(約九割)もが操船関係者占められてしまうことになる。非官人層が九割を占め国家使節というものが考えられるであろうか。首領をすべて民間から徴用された水手とすることには疑問がある」と評している。 渤海は、在地社会部落長を「首領」に任命在地社会部落中心となる大規模部落都督あるいは刺史中央から派遣統轄したとみられるが、河上洋は、渤海領域支配にあたり、府および州をおいたが、これは高句麗の城支配継承しており、行政機構であると同時に軍団組織でもあり、その基礎靺鞨部落あるいは高句麗城邑であり、渤海の府および州は、中国とは異な部落および城邑そのものであり、渤海在地首長層は「首領」を与えられることにより、在地社会における支配権認められ渤海支配体制組み込まれた、と主張しており、高句麗地方統治組織渤海地方統治組織類似性指摘している。高句麗地方統治組織は、大城 - 城 - 小城から成り大城と城には中央から各々褥薩(朝鮮語版)、処閭近支が長官として派遣されているが、『類聚国史』に記されている渤海地方体制比較した場合大城長官=褥薩(朝鮮語版)) - 城(長官=処閭近支)の関係は、そのまま大村長官都督) - 次長官刺史)の関係と相似しており、さらに、中国史料では、高句麗の褥薩は都督に、高句麗の処閭近支は刺史比定しており、このことも褥薩、処閭近支と渤海都督刺史同様の性格であったことを示している、と主張している。河上洋は、「刺史から下の対応関係はっきりしないが、高句麗小城におかれた可邏達が渤海の首領に、縣令比定された婁肖がそのまま渤海縣令当てはめられるのではないかただそうすると高句麗の可邏達は長史比定されているから渤海においては中国風に長史中国語版)とすべき官にわざわざ首領なる呼称当てているのが問題になる。一つ解答として、これは都督刺史高句麗人であるのに対し在地首長層の多く靺鞨から成ることの反映考えられる。つまり、種族相違からそのまま長史とはせずに先に述べた中国での用例意識して首領という呼称を附したのだろう」と主張している。また、河上洋は、唐の第一次高句麗出兵英語版)において、唐は高句麗の白巖城朝鮮語版)を降した際、城をそのまま巖州として州の刺史に白巖城主である孫伐音任命しており、高句麗滅亡後大城 - 城 - 小城から成る高句麗地方統治組織ある程度温存されていたのではないか、と推測し高句麗人住地における大城 - 城の関係にあたる靺鞨人住地の大村 - 次の関係について、靺鞨各部落には各々部落長がおり、独自活動をおこなっていたが、なかには、突地稽(中国語版)を長とする厥稽部のような軍事行動の際に他部落統率する力部落が存在し渤海はこうした力部落に都督あるいは刺史派遣して周辺小部落を統轄させ、靺鞨部落長に「首領与え都督および刺史指揮下におき、高句麗の城支配体制継承した渤海は城支配体制靺鞨の住地に対して及ぼしたではないか、と指摘し天顕元年三月契丹康黙記韓延徽蕭阿古只などが渤海長嶺府中国語版)を攻略し、それについて、『遼史』巻七三・粛阿古只伝は、淥府から七千の兵が派兵され、契丹軍と交戦したことを記しており、渤海の府および州が各々独自の軍団組織していたことが窺える、としている。 金毓黻中国語版)は、「首領、為庶民之長。亦庶官之通称也。謹案、日本逸史渤海都督刺史以下之百姓、皆曰首領百姓者別於庶民金代猛安千夫長・謀克百夫長之制。即以軍制部勒庶民而為之長。渤海首領制、即猛安・謀克之制之所自出也。出使鄰国大使以下之属官亦有首領。其位次録事品官之下。亦与金代謀克相等。故首領者亦庶官之称也。」と述べており、「百姓庶民トハナリ」とし、「大村都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。」の一節は、「都督刺史の下の百姓をみな首領曰う」と理解している。そして、「百姓者別於庶民」は、「庶民之長」としていることを参考にすれば百姓基本的に庶民の意味であるが、『類聚国史記事百姓はただの庶民ではなく庶民のなかから選ばれ庶民統轄し地方支配機構末端連なる者であり、首領呼ばれたの意味理解しており、『類聚国史記事百姓首領庶民の長となる。また、首領遣外使節下級役人などにもみえることから「庶官之通称」であるとし、金代社会組織軍事組織猛安・謀克の祖形としている。

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