渤海の首領
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史料の乏しい渤海史研究にとって、国家構造・社会構造の解明は至難であるが、注目されるのは、『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条の記事である。 渤海国者、高麗之故地也。天命開別天皇七年、高麗王高氏、為唐所滅也。後以天之真宗豊祖父天皇二年、大祚栄始建渤海国、和銅六年、受唐冊立其国。延袤二千里、無州県館駅、処々有村里。皆靺鞨部落。其百姓者、靺鞨多、土人少。皆以土人為村長。大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。土地極寒、不宜水田。俗頗知書。自高氏以来、朝貢不絶。 — 類聚国史、巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。日本後紀/卷第四 『類聚国史』殊俗部・渤海上に『日本後紀』編者が渤海初期の粟末社会を首領中心に描く記事があり、『続日本紀』の引く渤海使に託した渤海への外交文書に、相手を渤海国王に次いで「官吏・百姓」または「首領・百姓」とする表現などにより、「首領」と呼ばれる存在とその配下の大多数の「百姓」を基礎とした渤海社会の成り立ちが分かる。石井正敏は、『類聚国史』巻一九三・殊俗部・渤海上・延歴十五年四月戊子条記事が『日本後紀』の逸文であること、その編者による渤海新出の条における沿革記事であることを明らかにしたが、この記事は、渤海建国年を決定する情報が含まれているだけでなく、渤海の地方社会構造が記され、渤海史研究にとって最重要史料の一つである。しかし、その読解は難しく、とりわけ「其下百姓皆曰首領。」の一節が難解なため、多くの研究者が読解に挑戦、様々な首領論を展開している。「大村曰都督、(大村は都督と曰い、)、」以下の解釈は意見が分かれており、一つは李龍範(朝鮮語: 이용범、東国大学)および金鍾圓(朝鮮語: 김종원、英語: Kim Chong-won、釜山大学)の解釈であり、大村(長官都督) - 次村(長官刺史) - 其下(長官首領)の三級から成る地方行政組織を説明したものとするが、最後の部分の解釈は、李龍範は、其の下の百姓の長を首領と呼んだと解し、金鍾圓は、其の下の長を百姓が首領と呼んだと解す。もう一つは朴時亨および鈴木靖民の解釈であり、大村 - 次村の二級であり、「其下百姓曰首領。」は、それらの治下にある百姓が都督、刺史を総称して首領と呼んだと解するが、鈴木靖民は、この記事以外の渤海使関係史料から都督、刺史の下位の地方長官として首領が存在することを論じており、この点は李龍範および金鍾圓と意見を同じくする。 渤海史研究者は、唐代史料の周辺諸国および周辺諸民族関係記事に頻出する「首領」の用例から、「中国から四夷の首長層を指す語」「いわゆる王にあたる一国・一種族の首長か、それにつぐ有数の首長層ないし政治的支配層を指す中国王朝側の用語であり、かれらは中国からよりその支配領域を府や州として認められ、そのまま都督・刺史に任命される存在」「中国の正史の四夷伝や『冊府元亀』外臣部にはしばしば首領なる呼称が見られるが、これは異民族の長に対して中国側が附した一般的な名称であり、これは渤海あるいは靺鞨に限らない」という理解をしてきた。 727年、最初の渤海使が上陸地で大使などを失い、平城京に入った時の代表は「首領」であり、841年の渤海使の構成を宮内庁書陵部蔵壬生家文書の中台省牒(渤海の三省の1つである中台省の牒)写しにみると、105人中「首領」(大首領)が65人と半数を超え、716年以後の唐への「朝貢使」にも「首領」(大首領)がしばしば加わっている。「首領」とは渤海の固有語ではなく国際語としての漢語であり、渤海各地の多様な集団の支配者を指すが、地域集団の多数の住民を組織し、生産物を管理・分配して統制し、渤海国に服属して以後も生産・経済活動の維持を主とする伝統的な支配秩序をそのまま承認され、外交・交易にも関わったとみられる。824年、藤原緒嗣が渤海使の本質を「実にこれ商旅」と非難して以後は、派遣を12年に1回と制限したが、その後も一行の過半数を首領が占めており、首領たちは自らの支配地で獲得した毛皮などの特産物を交易品として携え、上陸地の北陸など日本海側、平城京あるいは平安京の客館などで公私の交易をおこなっており、日本から渤海へ贈られた「回賜品」の大半は首領に与えられることが規定されていたた(『延喜式』大蔵省)。渤海から唐への遣唐使は、王族、首領、臣・官吏に分けられ、うち首領(大首領)は8世紀前半までで、以後姿を消すが、この変化は渤海の靺鞨諸部族支配の拡大過程と対応関係にあり、首領たちは地方官制の整備にともない、府、州、県レベルの官吏への身分上昇を遂げた。渤海は朝貢の最初期から唐に「就市=公的交易」を要請し、毎年、市での名馬の交易、鷹鷂の歳貢、王子らによる熟銅の交易などの交易本位の外交を続けたが、その主要な担い手が首領層である。渤海政権は首領層の盛んな生産・流通機能を対外的交易活動に包摂、利用し、首領を頂点とする社会秩序・社会経済的組織をもとに、中華式の支配機構や律令制を組み合わせて国家の骨格をつくり、渤海は首領層が荷った交易活動を外交との絡みで活用した国家という一面を特質として指摘できる。 浜田耕策は、首領とは「種族の頭」の意味に解釈され、種族の構成員間には、擬制的血縁関係を紐帯として結合されていたと推測し、首領にはそれぞれの種族に固有の語音の名称があり、これが中国の統治者や記録者からみれば、「首領」と漢訳される。「首領」の種族語音を音写して種族固有の音を残した表記では、靺鞨諸族の後身に当たる契丹の語音では、「舎利」がこれに相当し、契丹の歴史を叙述した『遼史』巻一一六の「国語解」の「舎利」とは「契丹の豪民の頭巾を要裹する者、牛駝十頭、馬百疋を納むれば乃ち官を給す、名づけて舎利という」とある「舎利」であり、『五代会要(中国語版)』巻三十・渤海には渤海の建国の祖たる乞乞仲象を「大舎利乞乞仲象」と記録し、舎利とは首領を意味する靺鞨語の音写表記であり、『冊府元亀』巻九七五には、741年2月に越喜靺鞨の「部落の烏舎利」が唐に賀正使として派遣されたと記録され、『冊府元亀』九七一にも「其部落与舎利」と記録されており、『新唐書』巻四三下の地理志には、安東都護府に統括された九都督府の一つに舎利州都督府があり、『契丹国志』巻二にも「舎利萴刺」や「萴骨舎利」などと、人名の接尾や接頭にあらわれており、舎利は靺鞨に広くみられる種族語の音写であることが頷ける、と指摘している。これに対して河内春人は、舎利を渤海の在地首長である首領と同音異字であるとする見解があるが、唐は、首領という語句を新羅および国内の地域集団指導者に対しても用いており、「舎利」を中国人が「首領」と書きとったとするのは難しい、と指摘しており、『遼史』国語解には、「契丹豪民耍裹頭巾者、納牛駝十頭、馬百疋、乃給官名曰舎利。」とあり、契丹に属して家畜を一定数納める者に舎利を授けられたことがわかり、『資治通鑑』長興三年三月条には、「有契丹舎利萴剌與惕隱、皆為趙德鈞所擒。舎利・惕隱、皆契丹管軍頭目之称」とあり、舎利は契丹における軍事指導者であることがわかり、契丹や靺鞨において首長を指す言葉は、唐初までテュルク語で勇者をあらわすバガトルからくる「莫賀弗」「莫弗」「瞞咄」であり、「莫賀弗」が軍事指導者の意味を有し、舎利も軍事指導者であるならば、同一階層である蓋然性が高く、「莫賀弗」と「舎利」が同一階層であることを示す史料は存在しないが、唐初まで「莫賀弗」と称された首長は、その後、政治的整備から「舎利」という官を有するようになったと考えたい、と述べている。 渤海の生業は、高句麗および南部靺鞨は農耕、北部靺鞨諸部族は狩猟が中核であり、北部靺鞨諸部族地域は、『類聚国史』沿革記事にみえる、中央から派遣される支配層「土人」と一般民衆である靺鞨とがわけられ、間接支配がおこなわれていた。こういう形態の場合、「土人」と靺鞨が同族意識をもって融合するのは難しく、渤海建国以来の支配層である高句麗人および南部靺鞨が融合することは有りえても、被支配層である北部靺鞨と高句麗人および南部靺鞨は融合せず、北部靺鞨から反発があった場合、渤海は分裂しかねないが、そのような事態は渤海末期まで発生しておらず、それは、渤海支配層が被支配層である北部靺鞨諸部族の支持を得ていたからであり、「首領制」という渤海独自の在地支配方式に要因がある。「首領制」という用語をはじめて使用したのは鈴木靖民である。鈴木靖民は、首領は靺鞨諸部族の「部落」と呼ばれる地域に割拠する在地首長であり、伝統的な旧来の在地支配権をそのまま承認され、部落成員たる「百姓」を統属、かつ地方官人をはじめとする官僚や外交使節随員にもなった、と理解した。換言すれば、渤海王権は、靺鞨諸部族を支配するにあたり、その在地社会を解体することなく、在地首長を「首領」と名づけて支配権を認め、「首領」を官僚や外交使節随員という形で渤海国家のなかに包摂、国家的に再編成することにより、はじめて人民支配を貫徹することができたのであり、渤海は首領層を媒介にして靺鞨の人々を間接支配し、首領層も利益維持のために呼応した、と考えた。鈴木靖民は、こうした渤海国の国家および社会を特徴づける首領の特有のあり方を媒介とした、間接支配体制を「首領制」と呼ぶことを提唱した。河上洋は、高句麗の城支配体制のあり方と『類聚国史』沿革記事にみえる渤海社会のあり方との類似性を指摘し、渤海の地方支配体制は高句麗と継承関係にあると考え、高句麗の在地首長の官「可邏達」が渤海の「首領」に相当すると推定し、渤海は在地勢力を解体することなく、在地勢力に依拠して支配を及ぼしたと主張した。大隅晃弘は、鈴木靖民と河上洋の渤海の在地支配体制理解を支持し、渤海の靺鞨支配の進展と「首領制」の成立を関連づけ、唐あるいは日本との交易によって得られる首領の利益の大きさを指摘し、渤海が交易を独占したうえで首領をその利に与らせたことが渤海王権の支配貫徹の主要因であったとの見解を示した。石井正敏は、承和九年来日渤海使がもたらした咸和十一年閏九月二十五日付太政官宛中台省牒(渤海の三省の1つである中台省の牒)には、渤海使一行105人の内訳を明記してあり、「使頭(大使)一人、嗣使(副使)一人、判官二人、録事三人、訳語二人、史生二人、天文生一人、大首領六五人、梢工二八人」とあることから、大首領は、小首領といったものとの対称ではなく、首領の美称であろう、と指摘しており、その65人という数値が渤海の州数と一致することから、鈴木靖民は「(首領)支配下の土地からの産物が(日本への)朝貢物となって徴集されたのではなかろうか」「首領が一州につき一人といった割合で選抜され」たのではなかろうかと論じている。李成市は、「首領とは、渤海領域内の靺鞨諸部族の中でも在地社会に支配者として君臨する者たちで、渤海王権は彼らを包摂し、これを国家的に再編することによって集権的な支配を可能にしていたと推定されている」と指摘しており、首領が日本への遣使に参加していた背景には、元来、靺鞨諸部族はそれぞれ単独で唐あるいは新羅などの周辺諸地域と交易をおこなっていたが、8世紀半ば以降、靺鞨諸部族は渤海王権に包摂され、対外活動を停止したが、渤海王権に包摂された靺鞨諸部族の活動は渤海の対外戦略に拘束されざるを得なくなり、さらに、渤海は8世紀以降、一貫して新羅とは敵対戦略をとり、新羅との通交を途絶したことにより、狩猟・漁撈を生業とし、遠隔交易に従事していた靺鞨諸部族の行動を著しく狭め、地域的に新羅と隣接する南部の靺鞨諸部族にとって、新羅との交易は歴史を有する活動であり、これを補うかのように渤海は、靺鞨諸部族を積極的に唐あるいは日本への遣使に参加させることにより、靺鞨諸部族の従前の権益を保証した、と主張している。金鍾圓(朝鮮語: 김종원、英語: Kim Chong-won、釜山大学)は、『類聚国史』の記録を在唐学問僧永忠の見聞録の一部とし、高句麗遺民が比較的多い地域では州県制が施行されていたであろうが、靺鞨族が集団で居住する地域では部族制(部族自治制)が施行されていた、とみた。金東宇(朝鮮語: 김동우、国立春川博物館(英語版))は、渤海の首領を地方官、官僚、そして遣日使の下級随行員の三者に区分し、宣王大仁秀以後、下級随行員のように首領の地位が下落した理由は、中央の首領は政治制度が次第に整備されるにつれ、首領の称号に代わり別の官職名や官爵名で呼ばれ、地方の首領は、その独立的地位に以前よりも制約が加わったからだとした。宋基豪(朝鮮語: 송기호、英語: Song Ki-ho、ソウル大学)は、渤海の首領は中央政府から官職や官品を受けない勢力で、独自性を強く維持していた在地支配者であって、官職体制外にあったとみた。朴真淑(朝鮮語: 박진숙、忠南大学)は、首領は現地人である都督と刺史のもとに置かれた存在であって、地方民を統治する一定の権利を付与された地方の末端官吏とし、都督・刺史および県丞と同じく、首領もまた中央より任命されたであろうとみた。朴時亨は、百姓は「一般にいう庶民」であり、首領は「特別な現任官職のない、いわば後世における朝鮮の『両班』にあたる」と主張している。張博泉と程妮娜は、百姓のなかにあって、土人と靺鞨人の地位には差があり、「首領」とは、氏族長あるいは部落長を指し、都督および刺史とは、「首領」の上位の地方長官のことであり、一般に都督および刺史らは品階身分の貴族であった、と指摘している。 李成市は、渤海を独自のエスニック・アイデンティティ(民族意識)をもつ高句麗人と靺鞨からなる多民族国家とする見解を示したうえで、渤海は、従来より独自の対外交易をおこなっていた靺鞨諸部族を包摂するにあたり、独自外交を遮断する代わりに、在地首長である首領を渤海の対唐および対日使節団に恒常的に参加させることにより、対外交易の便宜および安全を供与して靺鞨諸部族を懐柔し、靺鞨に対する対外通交の管理こそが渤海の国家支配の要諦であるとし、対外通交は単に経済的行為であるばかりか政治支配の根幹に関わり、渤海の対日遣使団である渤海使が760年代を境に経済目的化しているようにみえるのも、こうした渤海の靺鞨諸部族支配のあらわれであると主張した。李成市の「首領制」は、渤海の北部靺鞨諸部族支配の進展と渤海使の経済目的化の時期とが重なること、渤海使の使節団の過半数を首領が占めており、日本からの回賜総量の半分以上が首領にわたること、狩猟および漁撈民はその生産物を農耕民との交換の必要性があることから交易民でもあること、渤海と同様に東夷諸族の世界に建国した高句麗および新羅も多民族状況を有し、自律性のある諸民族を統合する原理として中国文明を導入したこと、日本海側の靺鞨がその前身の一つである濊以来の遠隔地交易民であること、渤海国の衰退期に新羅国境付近の靺鞨が独自に新羅との交易を求めたこと、渤海滅亡後における旧渤海領域の女真族も高麗王朝と活発に交易したことなどを根拠としており、この仮説に従うならば、渤海は交易保証ができている間は、北部靺鞨諸部族の安定支配ができたことになる。古畑徹は、「首領制を基礎とする多民族国家としての渤海という捉え方は、この地域における民族と国家のあり方の歴史的変遷のなかに位置づいていて、非常に説得力のあるものになっている。いいかえれば、渤海の首領制は、李氏によって東夷諸族の大きな歴史の流れのなかに位置づけられたことで、渤海の国家・社会を理解するうえでの最も有力な仮説に成長したと評してよかろう」と述べている。 石井正敏は、「其下百姓皆曰首領」を「其ノ下ノ百姓ヲ、ミナ首領ト曰フ」と訓じて、「百姓」を百官=役人の意とし、都督・刺史という村長の下の役人=靺鞨人首長を首領と総称した、という解釈を提示し、首領制を支持している。一方、李成市が強調する在地首長自体が渤海使の一員となって来日したとすることには否定的であり、渤海使の史料に登場する首領は、日本の遣唐使でいえば、知乗船事、造舶都匠、船師、水手長、船匠、柂師、挟杪、射手などに該当し、幹部クラスより下の下級役人の総称と解し、首領は在地首長層の総称だけでなく、中央政府および地方政府をとわず下級官人層の汎称ではないかという理解を提示しており、首領の国家交易団への再編を渤海の国家支配の要諦とみなす首領制論には批判的である。古畑徹は、「この石井氏の論理展開は確かに見事であるが、氏自身が述べるように、日本では『百姓』の語は一貫して普遍的被支配身分の呼称として使用され、役人の意味に解する同時代事例がないという大きな欠陥が存在する。石井氏は『類聚国史』渤海沿革関係記事の『百姓』を渤海における用例とみる可能性も指摘するが、日本の人々に対して渤海の『首領』を解説する文章に渤海独自の用語が使われ、これについて何の説明もないというのはいかにも不自然である。その意味で、この石井氏の解釈も未だ決定打とはいえない」と評している。 森田悌は、「首領」について、二度にわたって論じているが、前説と後説では見解が異なり、前説は、咸和十一年閏九月二十五日付太政官宛中台省牒(渤海の三省の1つである中台省の牒)にみえる「六十五人大首領」記事から、首領を渤海使の水手と解し、水手は一般に百姓=庶民であることから、首領はその本義を離れ、渤海内で百姓クラスを指す用語に変質したと考え、「其下百姓皆曰首領」記事を、「ソノ下ノ百姓ヲ皆、首領ト曰フ」と訓じ、百姓=首領と解し、換言すれば、百姓=一般庶民説であり、首領制論とは対立する。後説は、「其下百姓皆曰首領」記事を、百姓=首領と解する見解は維持するが、渤海に編戸制がおこなわれており、複数の自然家族から成る戸を統率する戸主は庶民階層に属することを根拠にして、首領=戸主という新見解を提示し、戸を戸口や部曲および奴婢が属する大組織と解し、官吏と解さない点を除けば、首領=戸主説は首領制論の社会構造に近い。また、咸和十一年閏九月二十五日付太政官宛中台省牒における首領の解釈にも若干の変更を加え、水手をはじめ船内諸役に従事する者という見解を示している。古畑徹は、前説を「『大首領』を水手と解する点などに問題が残り、渤海史研究者の大方の賛同は得られなかった」、後説を「首領=戸主説と船内諸役に従事する者との関係が不明瞭で、論理自体にわかりにくい点が多く、依然として渤海史研究者からはほとんど賛同が得られていない」と評している。石井正敏は、「そもそも首領=水手とすることに問題があるのではなかろうか。すなわち遣日本使の首領を水手とすると、明らかに船員を意味する梢工がすでに二八人も乗り込んでいるので、一行一〇五人のうち九三人(約九割)もが操船関係者で占められてしまうことになる。非官人層が九割を占める国家使節というものが考えられるであろうか。首領をすべて民間から徴用された水手とすることには疑問がある」と評している。 渤海は、在地社会の部落長を「首領」に任命、在地社会の部落の中心となる大規模部落に都督あるいは刺史を中央から派遣、統轄したとみられるが、河上洋は、渤海は領域支配にあたり、府および州をおいたが、これは高句麗の城支配を継承しており、行政機構であると同時に軍団組織でもあり、その基礎は靺鞨の部落あるいは高句麗の城邑であり、渤海の府および州は、中国とは異なる部落および城邑そのものであり、渤海の在地の首長層は「首領」を与えられることにより、在地社会における支配権を認められ、渤海の支配体制に組み込まれた、と主張しており、高句麗の地方統治組織と渤海の地方統治組織の類似性を指摘している。高句麗の地方統治組織は、大城 - 城 - 小城から成り、大城と城には中央から各々褥薩(朝鮮語版)、処閭近支が長官として派遣されているが、『類聚国史』に記されている渤海の地方体制と比較した場合、大城(長官=褥薩(朝鮮語版)) - 城(長官=処閭近支)の関係は、そのまま大村(長官=都督) - 次村(長官=刺史)の関係と相似しており、さらに、中国史料では、高句麗の褥薩は都督に、高句麗の処閭近支は刺史に比定しており、このことも褥薩、処閭近支と渤海の都督、刺史が同様の性格であったことを示している、と主張している。河上洋は、「刺史から下の対応関係ははっきりしないが、高句麗の小城におかれた可邏達が渤海の首領に、縣令に比定された婁肖がそのまま渤海の縣令に当てはめられるのではないか。ただそうすると高句麗の可邏達は長史に比定されているから、渤海においては中国風に長史(中国語版)とすべき官にわざわざ首領なる呼称を当てているのが問題になる。一つの解答として、これは都督、刺史が高句麗人であるのに対し、在地の首長層の多くが靺鞨人から成ることの反映と考えられる。つまり、種族の相違からそのまま長史とはせずに先に述べた中国での用例を意識して首領という呼称を附したのだろう」と主張している。また、河上洋は、唐の第一次高句麗出兵(英語版)において、唐は高句麗の白巖城(朝鮮語版)を降した際、城をそのまま巖州として州の刺史に白巖城主である孫伐音を任命しており、高句麗滅亡後、大城 - 城 - 小城から成る高句麗の地方統治組織はある程度は温存されていたのではないか、と推測し、高句麗人住地における大城 - 城の関係にあたる靺鞨人住地の大村 - 次村の関係について、靺鞨の各部落には各々部落長がおり、独自活動をおこなっていたが、なかには、突地稽(中国語版)を長とする厥稽部のような軍事行動の際に他部落を統率する有力部落が存在し、渤海はこうした有力部落に都督あるいは刺史を派遣して周辺の小部落を統轄させ、靺鞨の部落長に「首領」与え、都督および刺史の指揮下におき、高句麗の城支配体制を継承した渤海は城支配体制を靺鞨の住地に対しても及ぼしたのではないか、と指摘し、天顕元年三月に契丹の康黙記、韓延徽、蕭阿古只などが渤海の長嶺府(中国語版)を攻略し、それについて、『遼史』巻七三・粛阿古只伝は、鴨淥府から七千の兵が派兵され、契丹軍と交戦したことを記しており、渤海の府および州が各々独自の軍団を組織していたことが窺える、としている。 金毓黻(中国語版)は、「首領、為庶民之長。亦庶官之通称也。謹案、日本逸史謂渤海都督・刺史以下之百姓、皆曰首領。百姓者別於庶民。金代有猛安千夫長・謀克百夫長之制。即以軍制部勒庶民而為之長。渤海之首領制、即猛安・謀克之制之所自出也。出使鄰国大使以下之属官亦有首領。其位次在録事・品官之下。亦与金代之謀克相等。故首領者亦庶官之称也。」と述べており、「百姓ハ庶民トハ別ナリ」とし、「大村曰都督、次曰刺史。其下百姓皆曰首領。」の一節は、「都督・刺史の下の百姓をみな首領と曰う」と理解している。そして、「百姓者別於庶民」は、「庶民之長」としていることを参考にすれば、百姓は基本的に庶民の意味であるが、『類聚国史』記事の百姓はただの庶民ではなく、庶民のなかから選ばれて庶民を統轄し、地方支配機構の末端に連なる者であり、首領と呼ばれた、の意味と理解しており、『類聚国史』記事の百姓=首領=庶民の長となる。また、首領は遣外使節の下級の役人などにもみえることから「庶官之通称」であるとし、金代の社会組織・軍事組織猛安・謀克の祖形としている。
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