渤海・耽羅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 23:08 UTC 版)
高句麗が唐に滅ぼされた後、その遺民によって渤海が建国された。渤海は唐や新羅と対立したため、日本は渤海と同盟関係を結んで渤海使・遣渤海使を交換した。34回の渤海使が日本に対して朝貢を行い、出羽国の秋田城、越前国の松原客館、能登国の能登客院にも渤海使が訪れた。当初の渤海は日本との政治的な結びつきを重視していたが、渤海と唐の関係が改善すると貿易が重視された。 日本は、済州島に成立した耽羅との間にも7世紀半ばから遣耽羅使・耽羅使を交換した。のちに耽羅は、莞島とともに海上貿易の拠点となる。
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渤海・耽羅
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渤海貿易では日本の絹織物が輸出される一方、渤海からは貴族の間で珍重された虎や貂が輸入された。日本では渤海に対する回賜が財政の負担となり、朝貢の期間を12年に1度と変更した。済州島の耽羅も倭国に対して朝貢を行った。
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