渤海使と漢詩
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共に唐の漢字文化圏に属している渤海と日本の宮廷社会を構成する上級階層にとって、漢籍、漢文学の学習が基礎教養とされていた。互いに話す言葉は通じなくても、筆談すれば意志は通じ、文書の類は翻訳せずともそのまま通用する状況であった。特に漢籍・漢文学が発達したのは、軍事的提携を結ぼうとして行われた初期の外交期ではなく、交易目的の経済外交として変化した時期以降である。渤海使も初期のころは全員武官の肩書を持っていたが、 762年(天平宝字6年)に来日した第6回渤海使王新福からは、文官の使節となり、ほとんどが漢詩文に長じた文人が選ばれて来日している。 漢詩の応酬が行われた最初(記録上の初めという意)は、758年(天平宝字2年)に来日した第4回渤海使揚承慶の時であった。揚承慶らは、朝廷での正式な宴の他に藤原仲麻呂の私邸「田村第」に招かれ歓待を受けた。その際、当代の文士が集められ、漢詩を賦して使節を送別した。これに対し渤海使の方では文人であったと見える副使「楊泰師」(揚泰師)が漢詩を2首作ってこれに和した。その2首である七言の「夜聴擣衣」と五言の「奉和紀朝臣公詠雪詩」は『経国集』に残っている。 文化人的性格の嵯峨天皇の権力が確立された後の第17回渤海使は、大使、副使以下、判官、録事に至るまで、文人をそろえた使節団を編成し派遣された。814年(弘仁5年)9月、出雲に到着したこの渤海使に対して、日本側は屈指の文人滋野貞主と坂上今継が存問兼領渤海客使として派遣された。(これは、平安朝の漢詩集『文華秀麗集』に残る巨勢識人や、渤海大使・王孝廉の詩題によって知ることが出来る。)やがて、年内に入京した使節団は元旦からの儀式、宴会に参列し、特に正月7日の使節団饗応のために開かれた宴では漢詩の交歓が行われた。この宴席での作と思われる渤海側3首、日本側5首の漢詩は『文華秀麗集』に撰集されている。1月22日に京を出て帰国の途についた後も漢詩を交歓しており、王孝廉の作品3首が同じく『文華秀麗集』に撰集されている。 この他にも、渤海からは王文矩、周元伯、楊成規、裴頲、裴璆などの一級文人が来日し、日本からは菅原清公、菅原道真、嶋田忠臣、都良香、紀長谷雄、大江朝綱、藤原雅量などの文人が応対している。交歓された漢詩は『経国集』、『文華秀麗集』の他に、『凌雲集』や『菅家文草』、『田氏家集』『扶桑集』などに残されている。これらの漢詩は、漢詩としての価値だけではなく、当時の状況を把握できる貴重なものとなっている。
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