渤海使と漢詩とは? わかりやすく解説

渤海使と漢詩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 02:57 UTC 版)

渤海使」の記事における「渤海使と漢詩」の解説

共に唐の漢字文化圏属している渤海日本宮廷社会構成する上級階層にとって、漢籍漢文学学習基礎教養とされていた。互いに話す言葉通じなくても、筆談すれば意志通じ文書の類は翻訳せずともそのまま通用する状況であった。特に漢籍漢文学発達したのは、軍事的提携結ぼうとして行われた初期外交ではなく交易目的経済外交として変化した時期以降である。渤海使初期のころは全員武官肩書持っていたが、 762年天平宝字6年)に来日した第6回渤海使王新福からは、文官使節となり、ほとんどが漢詩文長じた文人選ばれ来日している。 漢詩応酬が行われた最初記録上の初めという意)は、758年天平宝字2年)に来日した第4回渤海使揚承慶の時であった。揚承慶らは、朝廷での正式な宴の他に藤原仲麻呂私邸田村第」に招かれ歓待受けたその際当代文士集められ漢詩賦して使節送別した。これに対し渤海使の方では文人であったと見える副使楊泰師」(揚泰師)が漢詩を2首作ってこれに和したその2首である七言の「夜聴擣衣」と五言の「奉和紀朝臣公詠詩」は『経国集』に残っている。 文化人性格嵯峨天皇権力確立された後の第17回渤海使は、大使副使以下、判官録事に至るまで、文人そろえた使節団編成し派遣された。814年弘仁5年9月出雲到着したこの渤海使に対して日本側は屈指の文人滋野貞主坂上今継存問兼領渤海客使として派遣された。(これは、平安朝漢詩集『文華秀麗集』に残る巨勢識人や、渤海大使・王孝廉詩題によって知ることが出来る。)やがて、年内入京した使節団元旦からの儀式宴会参列し、特に正月7日使節団饗応のために開かれた宴では漢詩交歓が行われた。この宴席での作と思われる渤海側3首、日本側5首の漢詩は『文華秀麗集』に撰集されている。1月22日に京を出て帰国の途についた後も漢詩交歓しており、王孝廉作品3首が同じく文華秀麗集』に撰集されている。 この他にも、渤海からは王文矩、周元伯、楊成規、裴頲、裴璆などの一級文人来日し日本からは菅原清公菅原道真嶋田忠臣都良香紀長谷雄大江朝綱藤原雅量などの文人応対している。交歓された漢詩は『経国集』、『文華秀麗集』の他に、『凌雲集』や『菅家文草』、『田氏家集』『扶桑集』などに残されている。これらの漢詩は、漢詩としての価値だけではなく当時の状況把握できる貴重なものとなっている。

※この「渤海使と漢詩」の解説は、「渤海使」の解説の一部です。
「渤海使と漢詩」を含む「渤海使」の記事については、「渤海使」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「渤海使と漢詩」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「渤海使と漢詩」の関連用語

1
6% |||||

渤海使と漢詩のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



渤海使と漢詩のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの渤海使 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS