渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠
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「南北国時代」の記事における「渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠」の解説
北朝鮮、韓国において渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠は、つまるところ民族問題に収斂され、したがって北朝鮮や韓国における渤海史研究は、渤海と新羅との同族関係の証明や、高句麗-渤海の継承関係など、民族問題に集中する。 建国者および支配集団の出自についてである。渤海の建国者・大祚栄や、支配集団が高句麗人であれば、渤海は、高句麗の継承者国であり、高句麗そのものであるというのである。建国者や支配集団がその王朝の性格を決定づけるもっとも重要な論点とされている。 渤海国内の民族構成とそこにおける支配民族の役割についてである。渤海において一貫して王朝の主体的な役割を担ったのは高句麗系であり、被支配民族である靺鞨諸族に対する支配のあり方も高句麗時代以来、変わることはなかったとみている。住民構成における靺鞨族の割合を少なく見積もったり、あるいは靺鞨族の高句麗化というような民族融合の観点を強調する傾向もある。 渤海王室および支配者集団の高句麗継承意識である。日本にもたらされた渤海国書のなかに「高麗(高句麗)国王」と自称している点を重視し、渤海人自身が、明確に高句麗継承意識を堅持していたとみなしている。 新羅との相互間における同族意識についてである。新羅は渤海を「北国」または「北朝」と呼んでいたのであるから、渤海でも同様に新羅を「南国」あるいは「南朝」と称していたと推定し、相互に南北国、南北朝という意識をもっていた(推論)ことは、同族意識が共有されていたことのあかしと断定している。 渤海遺民の帰趨と帰属意識についてである。渤海滅亡後に、十万余りの渤海遺民が高麗のもとに帰服した事実を重視し、ここに新羅の領域を継承した高麗を渤海人が同族と意識していたからこそ、このような行動がありえたという。 渤海における高句麗文化の影響についてである。渤海の墳墓、住居址、都城趾および出土遺物、仏像など、遺跡・遺物はすべて高句麗との継承関係を明白に伝えているとみなしている。
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