渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠の意味・解説 

渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 21:25 UTC 版)

南北国時代」の記事における「渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠」の解説

北朝鮮韓国において渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠は、つまるところ民族問題収斂され、したがって北朝鮮韓国における渤海研究は、渤海新羅との同族関係の証明や、高句麗-渤海継承関係など、民族問題集中する建国者および支配集団出自についてである。渤海の建国者・大祚栄や、支配集団高句麗であれば渤海は、高句麗継承者国であり、高句麗そのものであるというのである建国者や支配集団がその王朝性格決定づけるもっとも重要な論点とされている。 渤海国内の民族構成とそこにおける支配民族役割についてである。渤海において一貫して王朝主体的な役割担ったのは高句麗系であり、被支配民族である靺鞨諸族に対す支配あり方高句麗時代以来、変わることはなかったとみている。住民構成における靺鞨族の割合少なく見積もったり、あるいは靺鞨族の高句麗化というような民族融合観点強調する傾向もある。 渤海王室および支配者集団高句麗継承意識である。日本もたらされ渤海国書のなかに「高麗高句麗国王」と自称している点を重視し渤海人自身が、明確に高句麗継承意識堅持していたとみなしている。 新羅との相互間における同族意識についてである。新羅渤海を「北国」または「北朝」と呼んでいたのであるから、渤海でも同様に新羅を「南国」あるいは「南朝」と称していたと推定し相互に南北国、南北朝という意識をもっていた(推論)ことは、同族意識共有されていたことのあかしと断定している。 渤海遺民帰趨帰属意識についてである。渤海滅亡後に、十万余り渤海遺民高麗のもとに帰服した事実重視し、ここに新羅領域継承した高麗渤海人同族意識していたからこそこのような行動がありえたという。 渤海における高句麗文化の影響についてである。渤海墳墓住居址都城趾および出土遺物仏像など、遺跡・遺物はすべて高句麗との継承関係を明白に伝えているとみなしている。

※この「渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠」の解説は、「南北国時代」の解説の一部です。
「渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠」を含む「南北国時代」の記事については、「南北国時代」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠」の関連用語

渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



渤海史を朝鮮史体系に組み入れる論拠のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの南北国時代 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS