渤海使一覧とは? わかりやすく解説

渤海使一覧

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 02:57 UTC 版)

渤海使」の記事における「渤海使一覧」の解説

回数来朝元号(日)元号(渤)正使天皇渤海王備考出典1 727年 神亀4年 仁安5年仁義 聖武 大武芸 大使・高仁義24名が出羽蝦夷地現在の秋田県北部から青森県にかけての日本海沿岸)に漂着したが、蝦夷襲撃され16名が死亡した生き残った首領渤海官名)の高斉徳ら8名が9月出羽国国府入り12月平城京到着し翌年1月天皇拝謁した渤海王大武芸からの親書産物(貂皮300張など)を献上した6月、送使の引田虫麻呂と共に渤海に向け帰国の途についた続紀 2 739年 天平11年 大興2年 胥要徳 聖武 大欽茂 新王大欽茂即位告げ使者であり、また、遭難遣唐使平群広成一行日本に送る使者でもあった。複数の船で渤海を発つが、往路に1隻が転覆し大使40人が死亡し残りの船の平群広成副使将軍己珎蒙らは7月出羽国到着した10月入京し、広成は11月、己珎蒙らは12月朝廷拝した。己珎蒙らは翌年1月弓射行事大射)にも参加し、また別の機会渤海音楽演奏もしている。2月に送使の大伴犬養と共に帰国の途についた続紀 3 752年 勝宝4年 大興15年 慕施蒙 孝謙 大欽茂 渤海使輔国大将軍慕施蒙ら75人が越後国佐渡島到着坂上老人らを越後派遣した翌年5月朝廷拝するが、孝謙天皇大欽茂国書で臣と称していないことを問題視し返書で『高麗旧記』を引用して指摘した6月帰国の途につく。 続紀 4 758年 宝字2年 大興21年 揚承慶 淳仁 大欽茂 23人。副使・揚泰師、判官・馮方礼。初の遣渤海大使小野田守副使高橋麻呂帰国に伴い758年9月越前国到着した。揚承慶らは12月入京し、翌年1月朝廷拝した国書大欽茂は「高麗国王」と自称し淳仁天皇返書承認した滞在中は恵美押勝らが饗宴した。この宴で揚泰師が詠んだ漢詩が『経国集』に収録されている。帰国直前藤原八束(真)が餞別の宴を開催した2月帰国時に入唐大使使(在唐の大使藤原清河迎え使者高元度判官内蔵全成ら(人数不明)が同行し、うち99名が渤海到着した続紀 5 759年 宝字3年 大興22年 高南申 淳仁 大欽茂 副使高興福、判官能本、解臂、安貴宝前回の迎入唐大使使の一部である判官内蔵全成80余人(唐に向かった高元度11人を除く)の帰国と共に759年10月対馬到着し12月入京翌年1月朝廷拝し、在唐の藤原清河渤海国託していた上表文提出した淳仁天皇大欽茂感謝の意示した2月、送使の陽侯令璆と共に帰国の途についた続紀 6 762年 宝字6年 大興25年 王新福 淳仁 大欽茂 副使能本判官楊懐珍、品官着緋・達能信。遣渤海大使高麗大山帰国旅程の佐利翼津(出羽国?)で死亡)、副使伊吉益麻呂帰国同行派遣された。高麗大山らの乗船能登」で航海し10月王新福以下23名が伊吉益麻呂と共に越前国加賀郡到着した12月入京翌年1月朝廷拝し、唐での安史の乱について情報提供した。この影響で唐使の沈惟岳帰国中止された。2月帰国の途につくとき、船が腐っていたため送使の多治比小耳判官平群虫麻呂らは渡航せず、船師板振鎌束責任者として渤海へ渡らせた。 続紀 7 771年 宝亀2年 大興34年 壱万福 光仁 大欽茂 青綬大夫壱万福325名が6月、船17隻で出羽国賊地蝦夷の地)野代湊(能代港)に到着し常陸国移された。12月末に入京翌年正月朝賀などに参加したが、国書大欽茂は「天孫」を自称していたため、旧来比べて無礼であるとして日本側が受け取り拒否した壱万福国書修正し謝罪したため、光仁天皇はこれを受け取り返書与えた2月に都を発った9月に送渤海客使の武生鳥守らと帰国のため出航する暴風遭い能登国漂着し能登国福良津(能登客院?)に滞在した滞在中の773年2月副使慕昌禄死去したその後武生鳥守再度出発し773年10月渤海からり帰還している。 続紀 8 773年 宝亀4年 大興36年 烏須弗 光仁 大欽茂 6月40人が船1艘で能登国到着した壱万福帰国しいために派遣されとされる。さらに、かつて渤海音声学んで日本帰った内雄(高内弓)の安否確認することが遣使の名目である旨を述べている。ただし、第7回記録通り壱万福武生鳥守渤海向かっているため、すれ違いになったもしくは「という名目で」の使節だったと推測される。この使者前回同様に上表文とその函が通例違っていて無礼である、との能登国司からの報告があり、都に召すことなく帰国させている。また「以降は”旧来通り筑紫道(大宰府経由で来るように」と伝達した。ただし渤海国使節出羽から越前にかけての日本海沿岸到着漂着)するのが常であり、大宰府経由で来たことはないため、高句麗時代先例を指すと見られる(ただし、次回第9回目の渤海使大宰府目指し結果慣れない航海強いられたために遭難したため、さらに渤海から大宰府経路上にある新羅国と渤海対立状態にあり、すなわち航行の安全が保障されないため、この伝達は事実上撤回されたと見る説もある)。延暦23年804年6月には能登国能登客院建造されている。 続紀 9 776年 宝亀7年 大興39年 史都蒙 光仁 大欽茂 発ったのは187人だったが、日本到着直前暴風遭い船が大破し判官の高淑源ら百数十名が死亡した12月46人が越前国加賀郡生存到着した死者のうち加賀郡江沼郡遺体流れ着いた30体は、778年4月朝廷越前国命じて埋葬させた。日本側は「(前回命じたはずだが)大宰府に来るように言ったのに違えたのは何故か」と問い史都蒙は「一応は対馬目指したが、暴風流された」と弁明した朝廷30人入京させるように言った史都蒙は「100人以上の死人出しながら、ここまで苦労した46人なので、全員お目通り願いたい」と返答した。この願い叶えられ777年4月一行入京した。参内宴席行事への参加行い渤海音楽演奏した5月、送使の高倉殿継高麗大山の子)らと共に帰国するも、暴風遭い渤海辺境地域漂着して船は破損した。その他、橘清友項目参照続紀 10 778年 宝亀9年 大興41年 張仙寿 光仁 大欽茂 高倉殿継帰国の送使。渤海船2艘で渡航し9月越前国三国湊到着した翌年1月朝廷拝し2月帰国の途につく。 続紀 11 779年 宝亀10年 大興42年 高洋弼、又は高洋光仁 大欽茂 9月利人(渤海対立していたツングース系部族)と合わせて359人が出羽国到着した。「使者身分が低いので賓客待遇とするには当たらない」「(渤海からの)上表文無礼であるから進上させてはならない」と記録されている。また、大宰府経由でないことを咎めている。12月使節らは帰国の船が無いので、船9隻をくれるよう求め日本側はそれを受け入れた宇治谷孟は「(利人の)来日渤海人巻き込んで亡命か」と述べている。 続紀 12 786年 延暦5年 大興49年 元泰 桓武 大欽茂 9月出羽国来着した。出羽国司の報告では「65人が船1隻に乗って漂着漂着時、蝦夷襲われ連れていかれた12人、現在いる者41人」。翌年2月元泰帰国手段が無いことを訴え朝廷越後国命じて船1艘と人員与えた続紀 13 795年 延暦14年 正暦元年 呂定琳 桓武 大嵩璘 68名。11月出羽国到着した翌年4月朝廷拝し渤海国について記した在唐の僧永忠書状などを献上した5月に送渤海客使に任じられ御長広岳桑原秋成と共に帰国した国史 14 798年 延暦17年 正暦4年 大昌桓武 大嵩璘 12月到着遣渤海使内蔵賀茂麻呂帰国同行か。翌年4月に送使の滋野船白と共に帰国した。 後紀 15 809年 大同4年 正暦15年 高南容 嵯峨 大元瑜 大嵩燐の薨去大元瑜即位報告するため10月来日し翌年4月入京したが、日本でも桓武天皇崩御し嵯峨天皇即位していたために帰国4月越前国から帰国する際に首領高多仏脱走し越前残留した高多仏越中国移され史生羽栗馬長らに渤海語教えた国史 16 810年 弘仁元年 永徳元年 高南容 嵯峨 大元瑜 9月桓武天皇への弔意表し嵯峨天皇即位を祝う大元瑜国書持参して改め来日し翌年1月入京した。4月、高南容を送るため東人が送使として派遣される。これを最後に日本からは遣使も送使も派遣されなくなる。 後紀 17 814年 弘仁5年 朱雀2年孝廉 嵯峨 大言義 9月出雲国来着滋野貞主坂上今継存問兼領渤海客使に任ぜられる。翌815年1月の宴で詠まれ坂上今継大使・王孝廉録事・釈仁貞の漢詩が『文華秀麗集』に収録帰国の途についた後、暴風で船が破損したため、越前国新船建造されたが、王孝廉、釈仁貞、判官・王昇基らは疱瘡天然痘)のため死亡した副使・高景秀らは816年5月帰国した。 後紀 18 817年 弘仁8年 朱雀5年 慕感徳 嵯峨 大言義 直接史料はなく李承英の来日時言及され史料のみ現存する翌年帰国時に日本側から船を与えられた。 国史 19 819年 弘仁10年 建興元年 李承嵯峨 大仁秀 11月来日した翌年1月帰国国史 20 821年 弘仁12年 建興3年 王文嵯峨 大仁秀 10月来日帰国直前翌年1月の宴で一行打毬披露し、これに感嘆した嵯峨天皇滋野貞主漢詩経国集収録されている。 国史 21 823年 弘仁14年 建興5年 高貞泰 淳和 大仁秀 101人が11月加賀国来着。しかし大雪により平安京加賀交通断絶していたために存問渤海客使の派遣停止され加賀守紀末成慰問担当した翌年1月右大臣藤原緒嗣の上表により「渤海使国賓ではなく貿易商人である」と判断されて、以降12年一度とされた(のちに6年一度緩和)。この使節入京拒否されたが、献上した契丹蒙古)は京に運ばれ4月神泉苑行幸した天皇面前鹿を逐った。 国史 22 825年 天長2年 建興7年 高承淳和 大仁秀 103人が12月隠岐来着した。翌年3月藤原緒嗣は再び追い返すよう主張したが、高承祖らは在唐の学問僧霊仙の上表を預かっていたため、5月入京した。同月帰国国史 23 828年 天長5年 建興10年 王文淳和 大仁秀余人1月但馬来着したが、違期理由入京拒否された。 国史 24 841年 承和8年 咸和11年 賀福延 仁明 大彝震 105人が12月長門国到着した存問渤海客使として少外記山代氏益式部大丞小野恒柯派遣され応接した。翌年2月入京後は鴻臚館滞在した藤原諸成藤原春津藤原氏宗山田文雄応接している。4月帰国。 続後紀 25 848年 嘉祥元年 咸和18年 王文仁明 大彝震 100人。12月能登国到着翌年大学大允の山口西成らが存問渤海客使となり、4月平安京入った平安京の鴻臚館滞在節会において応対中使として藤原衛陪席し、使節藤原衛儀範賞賛5月帰国時に参議小野篁小内安野豊道藤原春津橘海雄文官達が鴻臚館にて勅書太政官牒伝達した。 続後紀 26 859年 貞観元年 烏孝慎 清和 大虔晃 副使・周元伯。104派遣1月能登国珠洲郡来着し、従七位越前少掾という卑官だった島田忠臣急遽加賀権掾引き上げ任じられ接客使となる。忠臣は周元伯と漢詩唱和した。大内記安倍清行が領渤海客使に任じられるが父安仁死去により辞任諒闇のため7月加賀国より放還した。この使節が唐の『長慶宣明暦経(宣明暦)』を伝えている。のち暦博士大春日真野麻呂強く推進し朝廷はこれを採用した862年から1684年まで823年間使われた。 実録 27 861年 貞観3年 居正 清和 大虔晃 105人が1月隠岐国から出雲国到着した散位藤原春景が領渤海客使に任命された。違期理由入京拒否される近江国石山寺の『仏頂尊陀羅尼記』の奥書には、この渤海使居正によってもたらされた、と記されている。 実録 28 871年 貞観13年成規 清和 大虔晃 副使李興晟。105人が12月加賀国到着した当時加賀権掾島田良臣872年1月6日存問渤海客使に菅原道真任じられるが、同月26日に母の服喪辞任した交代した存問渤海客使の大春日安守4月加賀移動し使節持参した啓牒の内容について審問している。使節大春日安守伴われ5月入京し、参議源舒鴻臚館にて渤海国王の親書献上品受け取っている。式部少丞平季長大内記都言道(この任命機に都良香改名した)が掌渤海客使に任じられ接待担当した。その他大学頭・巨勢文雄越前大掾藤原佐世饗宴のために鴻臚館遣わされている。大使詩才があり、高階令範橘広相らと交流した帰国時は領帰渤海客使の常陸少掾多治守善と文章生菅野惟肖応接した。この頃平安京に「咳逆病」が蔓延し渤海使持ち込んだ噂された。 実録 29 876年 貞観18年中遠 清和 大玄錫 105人が12月出雲国到着した翌年元慶元年2月存問渤海客使兼領客使に伊伎月雄と大春日安名前回大春日安守一族)が任じられた。3月伊伎月雄が領客使を兼ねる。違期理由入京拒否され6月帰国実録 30 882年 元慶6年 裴頲(はいてい) 陽成 大玄錫 105人が11月加賀国到着した翌年4月平安京入り1ヶ月ほど滞在した少外記大蔵善行式部少丞高階茂範存問兼領渤海客使に任ぜられ、文章得業生紀長谷雄右衛門大尉坂上茂樹が掌渤海客使に任じられ応接担当した和気彜範鴻臚館にて貢物返礼品受け渡し行っている。漢詩漢学知識のあった菅原道真治部大輔)や道真推挙により都に呼び戻され島田忠臣玄蕃頭)らと漢詩交流を行う。同年端午節会に際して陽成天皇皇居武徳殿渤海使召喚した際、安倍興行応接務めている。また、882年陽成天皇の勅に「能登国をして(能登国羽咋郡福良泊山木を伐損するを禁ぜしむ。渤海北陸道岸に著するの時、必ず還舶を此の山にて造る」とあるため、この頃渤海使帰路の船は能登建造されていたと推測される実録 31 892年 寛平4年 王亀謀 宇多 大玄錫 出雲国到着するが、違期理由放還。 紀略 32 894年 寛平6年 裴頲 宇多 大玄錫 伯耆国来着した。895年1月存問渤海客使に三統理平伯耆権掾橘澄清任じられた。5月入京大使菅原道真再会した。 紀略 33 908年 延喜8年 裴璆はいきゅう醍醐 大諲譔 正月伯耆国到着した裴璆は裴頲の子。掌渤海客使に式部少丞紀淑光散位菅原淳茂菅原道真の子。父に連座して左遷後であり散位)が任じられた。5月入京した。6月供応の際に大江朝綱作った漢詩(「夏夜鴻臚館餞北客」)が『本朝文粋』に採録されている。 紀略 34 919年 延喜19年 裴璆 醍醐 大諲譔 105名。11月越前敦賀半島丹生浦に来着し、同地松原客館移されるも、館の管理がなっておらず不便であった(『扶桑略記』)。翌年5月入京し、同月帰国の途につく。その際4名が逃走した。 紀略 (35) 922年 延喜22年 不明 醍醐 大諲譔 9月渤海客を越前安置詳細不明扶桑 929年 延長7年甘露4年裴璆 醍醐耶律突欲93人が12月丹後国竹野郡大津浜に来着した。926年渤海国滅亡後東丹国契丹)に仕えた裴璆東丹国使者として来朝した。翌年存問使として親交のあった藤原雅量派遣された。(これまで二度裴璆来訪違い)何故国名が変わったのかを問われ裴璆渤海国契丹征服され滅亡したことを知らせ、かつ東丹王の非道ぶりを訴えた4月主君変えたばかりか新主の悪口を言うとは不届きな、すなわち「不義不忠の者」として朝廷使節入京させずに追い返した。これにより東丹国日本海側までも勢力範囲としていたこと、旧渤海国人材採用していたこと、渤海国成り代わって日本との通交意図していたこと、日本はそれを求めていなかったことが窺える藤原雅量裴璆同情したらしく、後に回想した漢詩が『扶桑集』に残っている 紀略、扶桑 注:926年渤海契丹(後の遼)に滅ぼされた。929年使節契丹建てた東丹国よりの使者渤海使後継名乗ったのである甘露東丹国元号耶律突欲東丹国の王。

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