平安京の鴻臚館
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 14:33 UTC 版)
平安京の遷都が延暦13年(794年)であり、平安京の鴻臚館は3つのうちで最も遅くに設立された客館となる。 当初は朱雀大路南端の羅城門の両脇に設けられていた。東寺・西寺の建立のため弘仁年間(810年 - 824年)に朱雀大路を跨いだ七条に東鴻臚館・西鴻臚館として移転。現在の京都府京都市下京区、JR丹波口駅の南東附近に位置した。天長10年(833年)の『令義解』にある鴻臚館は平安京の鴻臚館を指している。 平安京の鴻臚館はおもに渤海使を迎賓していた。「北路」にて来訪した渤海使は能登客院(石川県羽咋郡志賀町か)や松原客館(福井県敦賀市)に滞在して都からの使者を迎え、使者に伴われて都に上り、鴻臚館に入った。都の鴻臚館で入朝の儀を行ったのち、内蔵寮と交易し、次に都の者と、その次に都外の者と交易をした。しかし渤海王大仁秀治世に日本との関係に変化が生じて交易が減退。日本側では824年に右大臣藤原緒嗣により「渤海使は国賓ではなく貿易商人である」と判断されて、以降12年に一度とされる(のちに6年に一度に緩和)。東鴻臚館は承和6年(839年)に典薬寮所管の御薬園へと改められた。さらに渤海国が契丹(東丹国、遼)によって滅亡(926年)させられたのちは当然だが渤海使の来朝は無くなり。施設は衰え、鎌倉時代の頃に消失した。一説には延喜20年(920年)の頃に廃止されたともされる。 末期の鴻臚館の状態について、以下の史実がある。村上天皇が天徳元年7月27日(957年8月25日)に意見封事を求める綸旨を出し、同年12月27日(958年1月19日)に従五位上右少弁菅原文時(菅原道真の孫)が村上天皇に対し『意見封事三箇条』を提出した。全3条のうち、役人・貴族の堕落を取り締まるべきとする内容の2か条に続き、第3条において「請不廃失鴻臚館懐遠人励文士事」(外交の再建と文芸の振興の観点からの鴻臚館復活)の論を展開している(『本朝文粋』・『群書類従』)。すなわち渤海滅亡から30年後のこの時点で鴻臚館は「復活」させねばならない状態だったことがわかる。 『源氏物語』第1帖『桐壺』には、鴻臚館滞在の高麗の人相占いの元を光源氏が訪れる様子が書かれている。また江戸時代には与謝蕪村が「白梅や墨芳しき鴻臚館」と詠っている。今では大正4年(1915年)に建てられた東鴻臚館址の碑が下京区西新屋敷揚屋町に残るのみである。
※この「平安京の鴻臚館」の解説は、「鴻臚館」の解説の一部です。
「平安京の鴻臚館」を含む「鴻臚館」の記事については、「鴻臚館」の概要を参照ください。
- 平安京の鴻臚館のページへのリンク