平安京の守護神
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:54 UTC 版)
田村麻呂の埋葬法は、死後も平安京と天皇を守護してくれるようにとの嵯峨天皇の願いが込められた措置であったとみられる。 嵯峨天皇作とされる『田邑傳記』には、田村麻呂の墓は「その後、もし国家に非常時有れば、則ち件の塚墓は苑も鼓を打つが如く、或いは雷電の如し。爾来、将軍の号を蒙りて凶徒に向う時は先ずこの墓に詣で、誓い祈る」とあり、国家非常のさいには田村麻呂の霊が警告を発し、国家に反逆する者を討つべく派遣される者は田村麻呂の加護を祈ったという。また田村麻呂の死を惜しんだ嵯峨天皇は田村麻呂の遺品の佩刀の中から1振りを選び、その刀を朝廷守護の宝剣として御府に納め、坂家宝剣は歴代天皇に相伝された。 このように王城の基礎を築いた田村麻呂を「王城鎮護」や「平安京の守護神」とする思いが京都を中心にして早くから芽生えていた。 『平家物語』には、将軍塚(青蓮院門跡飛び地境内)は延暦13年2月に平安遷都のおり、末代まで王城を守護せよとの祈りをこめて、東山の頂きに8尺の武装した土偶を埋めた塚であり、王城に変事があれば動揺するとある。田村麻呂の墓にまつわる伝説と共通する点があるため同一視されることがあるが、本来は別なものである。
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