和気彜範とは? わかりやすく解説

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和気彜範

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/04 02:15 UTC 版)

和気 彜範(わけ の つねのり、生年不詳 - 仁和4年5月3日888年6月15日))は、平安時代前期の貴族隠岐守・和気時盛の子とする系図がある[1]官位従四位下伊予守

経歴

木工大允を経て、清和朝貞観2年(860年従五位下叙爵し、翌貞観3年(861年)木工権助に昇格する。貞観7年(865年)木工頭・紀春枝や木工権頭・有宗益門ら木工寮の官人らとともに近江国へ派遣されている[2]。貞観9年(867年少納言に転じて、のち侍従を兼ね、清和朝後半は少納言兼侍従として天皇の身近に仕えた。また、同年には円珍延暦寺座主とする使いも務めた[3]。貞観11年(869年)従五位上に叙せられ、翌貞観12年(870年)検河内国水害堤使に任ぜられる。またこの間、以下の奉幣使も務めた。

貞観19年(877年)正月の陽成天皇即位に伴い正五位下に昇叙される。まもなく内蔵頭に遷り、同年4月に大極殿の起工を行った際、権左中弁藤原春景や木工権頭・藤原維邦らとともに行事を仕切った[8]元慶3年(879年従四位下に叙せられる。元慶7年(883年渤海使が来日した際には、鴻臚館に派遣されて貢物と回賜の交換対応を行っている[9]

元慶8年(884年光孝天皇の即位後まもなく山城守として地方官に転じるが、翌元慶9年(885年)内蔵頭に復任する。仁和3年(887年伊予守に任ぜられ再び地方官を務めた。

仁和4年(888年)5月3日卒去[10]

官歴

日本三代実録』による。

脚注

  1. ^ 「和気氏系図」『続群書類従』巻第171
  2. ^ 『日本三代実録』貞観7年4月1日条
  3. ^ 『日本三代実録』貞観10年6月1日条
  4. ^ 『日本三代実録』貞観3年5月15日条
  5. ^ 『日本三代実録』貞観7年2月14日条
  6. ^ 『日本三代実録』貞観7年4月17日条
  7. ^ 『日本三代実録』貞観14年3月23日条
  8. ^ 『日本三代実録』元慶元年4月9日条
  9. ^ 『日本三代実録』元慶7年5月7日
  10. ^ 『日本人名大辞典』

参考文献




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