渤海の姓氏とは? わかりやすく解説

渤海の姓氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 15:19 UTC 版)

渤海 (国)」の記事における「渤海の姓氏」の解説

渤海の姓氏は、王家の大氏を含めて57姓であり、渤海の姓氏の構造は、まず渤海王族の大氏、その次は中原から流れた漢人豪族右姓、さらに靺鞨一部高句麗貴族の右姓、最後に漢化した靺鞨平民高句麗平民中原から流れた漢族平民の庶姓からなり、渤海の姓氏は靺鞨高句麗漢族姓氏からなる渤海人姓名には、形容美、叡智への祈願徳性美への追求福禄寿への憧憬儒学仏教への尊崇がみられ、中国の影響受けている。 渤海王国の完成官制とどまらず王都居住する人々姓名をも唐風化させ、その変化王族から臣下の上層部、そして下部から地方社会へと浸透した。姓ばかりでなく、名が靺鞨固有語音からそれを漢字好字採用して漢訳するか意訳した三文字姓名改まった大祚栄父の名乞乞仲象とその音を漢字表記されたが、則天武后から震国公に封ぜられると「大」の姓を名乗ることになり、子の大祚栄みごとに唐様姓名である。しかし、まだ名のみは靺鞨固有語音を守る傾向消えておらず、大武芸嫡男大都利行(中国語版)といい、都利行とは靺鞨固有語音であり、大武芸大臣の味勃計(722年)、大武芸の弟の大昌勃価(中国語版)(725年)などは、まだ固有音の漢字表記傾向みられる。この傾向王族筆頭とする社会の上層ばかりでなく首領層にもみられ、大首領の烏借蒙(725年)や使者の烏那達利(730年)は、烏という靺鞨みられる一文字姓であるが、名の借蒙や那達利のように未音の蒙や利をもつ人物靺鞨諸族の遣唐使にしばしばみられたように、名にはいまだ固有性残していた。しかし、741年渤海遣唐使の失阿利が黒水靺鞨の阿布利とともに入唐して以後固有色のある人名遣唐使のなかにみられず、渤海人特有の姓名消え唐様姓名へと統一される。 『松漠紀聞にみえる金初の渤海人社会に関する記事に、旧王族である大氏の他に有力氏族として高氏、張氏、楊氏、竇氏、烏氏李氏の六氏が挙げられている。一方渤海存在した同時代の諸史料登場する有力氏族姓氏は、最も多いのが大氏、次いで高氏李氏王氏烏氏楊氏、賀氏と続くが、『松漠紀聞にみえる張氏と竇氏が渤海時代にはほとんどみえず、渤海時代に多い王氏は『松漠紀聞』に登場しない。張氏は、『金史』張浩伝に本姓高であり、張浩(中国語版)の曾祖張霸時に遼に仕えて張氏に改めたことが記されており、金代活躍した張氏はもとは高氏称しており、渤海時代に張氏が登場しないのも不思議ではない。竇氏について、金毓黻中国語版)は『渤海国長編朝鮮語版)』において、渤海時代比較多くみえる賀氏の誤りである可能性指摘している。王氏は、王庭筠中国語版)をはじめ、金代にも有力氏族として存在するが、王庭筠中国語版)の墓誌にその祖が太原王氏出身であると記されているように、金代においては渤海人というより漢人として意識されていたために、『松漠紀聞』は、王氏渤海の有力氏族のなかに数えなかった可能性がある。有力氏族中国姓名をもって史料にはじめて登場するのは高氏および李氏大武芸時代王氏烏氏楊氏大欽茂時代であるが、大欽茂時代渤海支配領域がほぼ定まり中国文化および中国制度導入して国家体制整備し、かかる状況下で支配者層中国風の教養身に着けるとともに中国姓名称するうになる同時期に有力氏族以外で中国姓名をもつ者は少数であることから、有力氏族のもつ中国姓名権威象徴、あるいは唐の貴族制では、姓によるランク付けおこなわれており、渤海においてもそれが意識されていた可能性がある。 韓国では『松漠紀聞』に「其王旧以大為姓、右姓曰、高・張・楊・賓・烏・、不過数種、部曲奴婢無姓者、皆従其主」とあり、この渤海の姓は、高、張、楊、竇、烏、などわずか数種であり、奴婢や姓のない者はその所有者に従うという記事根拠に、渤海住民構成支配層高句麗系とする主張がある。また、韓国では、日本派遣され渤海使臣のほとんどは高氏などの高句麗上層階級出身者であり、他国使臣として派遣され高位官職高句麗系であるならば、渤海支配層高句麗系とみるべきであり、 渤海10%高句麗人の上層構造90%の靺鞨族の下層構造からなる社会との見解がある。 『韓国民族文化大百科事典』は、以下の主張をしている。 발해는 건국집단의 구성이나 지배집단의 성씨(姓氏) 구성에서 고구려계통의 사람들이 주도권을 쥐고 있었다.특히 지배층의 성씨에서 고구려계통의 고(高)씨가 다수를 점하고 있고, 발해 초기의 지배층들이 묻혀 있는 육정산(六頂山)고분군에서 고구려식 석실봉토분(石室封土墳)이 핵심을 이루고 있는 것도 이를 뒷받침한다.渤海建国集団構成支配集団姓氏構成で、高句麗系の人々主導権握っていた。特に支配層姓氏高句麗系の高氏多数占めており、渤海初期支配層埋葬されている六頂山古墳群高句麗石室封土墳が中核成しているのも、これを裏付けている。 — 한국민족문화대백과사전、남북국시대(南北國時代) 宋基豪(朝鮮語: 송기호、ソウル大学)は、渤海支配階層多く占める大氏は、血統としては靺鞨系であるが、すでに高句麗化が進んだ大祚栄集団末裔であり、高氏は、大祚栄集団行動をともにした営州高句麗系あるいは遼東地方安東都護府)から大祚栄集団加わった高句麗系であると推定しており、渤海支配層姓氏構成をみると、現在までに知られている渤海人遺民含めて400人ほどであり、このうち大氏が117人で、高氏63人にのぼり、この二つ姓氏だけみても、渤海支配層高句麗系が主軸成していることが分かり残り姓氏高句麗系である可能性が高いため、渤海支配層高句麗系で構成されており、渤海靺鞨高句麗人である大祚栄大祚栄支援した高句麗系の人物主導権握った国であり、特に高句麗系であることが明確な高氏高氏高句麗王姓)が有力な貴族として絶対多数占めていたという事実は、渤海高句麗継承性明確に示していると主張している。朴時亨は、支配勢力名字分析通じて渤海政治権力核心高句麗人であり、靺鞨人は非支配層であると主張している。 一方魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)と郭素美(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、高句麗人である高氏階級分析した結果官職持っている高氏の最高官職は、中央の場合は「少卿(中国語版)」、地方の場合は「州刺史」、武官では散位が「輔国将軍中国語版)」「中郎将」であり、高句麗人である高氏貴族支配的地位とは無関係低位であり、渤海支配層高句麗人であるなら、何故高句麗人である高氏貴族支配的地位とは無関係低位であるのかと反論しており、渤海主体民族支配勢力高句麗人という主張根拠がないと主張しており、渤海王家は200年の間大氏であり、現在知られている380人の渤海人のうち117人が大氏であり、大氏が王政核心地位終始占めていたことからみると、大祚栄粟末靺鞨人であるならば、主体民族支配勢力粟末靺鞨であり、その地位終始変わっていないと主張している。 小川裕人は、遼では払涅靺鞨後身の烏惹の酋長が烏昭度・烏昭慶という烏姓を称しており、また金初期生女直までが競って漢名称したこともあり、靺鞨人が高句麗人や漢人倣って漢名称したこともあり得るため、渤海人漢名称したとしても高句麗遺臣考える必要はないと述べている。

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