渤海の姓氏
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渤海の姓氏は、王家の大氏を含めて57姓であり、渤海の姓氏の構造は、まず渤海王族の大氏、その次は中原から流れた漢人の豪族右姓、さらに靺鞨と一部の高句麗貴族の右姓、最後に漢化した靺鞨平民と高句麗平民と中原から流れた漢族平民の庶姓からなり、渤海の姓氏は靺鞨、高句麗、漢族の姓氏からなる。渤海人の姓名には、形容美、叡智への祈願、徳性美への追求、福禄寿への憧憬、儒学・仏教への尊崇がみられ、中国の影響を受けている。 渤海王国の完成は官制ととどまらず、王都に居住する人々の姓名をも唐風化させ、その変化は王族から臣下の上層部、そして下部から地方社会へと浸透した。姓ばかりでなく、名が靺鞨の固有語音からそれを漢字の好字を採用して、漢訳するか意訳した三文字の姓名に改まった。大祚栄の父の名は乞乞仲象とその音を漢字表記されたが、則天武后から震国公に封ぜられると「大」の姓を名乗ることになり、子の大祚栄はみごとに唐様の姓名である。しかし、まだ名のみは靺鞨の固有語音を守る傾向は消えておらず、大武芸の嫡男は大都利行(中国語版)といい、都利行とは靺鞨の固有語音であり、大武芸の大臣の味勃計(722年)、大武芸の弟の大昌勃価(中国語版)(725年)などは、まだ固有音の漢字表記の傾向がみられる。この傾向は王族を筆頭とする社会の上層ばかりでなく首領層にもみられ、大首領の烏借芝蒙(725年)や使者の烏那達利(730年)は、烏という靺鞨にみられる一文字姓であるが、名の借芝蒙や那達利のように未音の蒙や利をもつ人物が靺鞨諸族の遣唐使にしばしばみられたように、名にはいまだ固有性を残していた。しかし、741年に渤海の遣唐使の失阿利が黒水靺鞨の阿布利とともに入唐して以後は固有色のある人名は遣唐使のなかにみられず、渤海人特有の姓名は消え、唐様の姓名へと統一される。 『松漠紀聞』にみえる金初の渤海人社会に関する記事に、旧王族である大氏の他に有力氏族として高氏、張氏、楊氏、竇氏、烏氏、李氏の六氏が挙げられている。一方、渤海が存在した同時代の諸史料に登場する有力氏族の姓氏は、最も多いのが大氏、次いで高氏、李氏、王氏、烏氏、楊氏、賀氏と続くが、『松漠紀聞』にみえる張氏と竇氏が渤海時代にはほとんどみえず、渤海時代に多い王氏は『松漠紀聞』に登場しない。張氏は、『金史』張浩伝に本姓は高であり、張浩(中国語版)の曾祖・張霸の時に遼に仕えて張氏に改めたことが記されており、金代に活躍した張氏はもとは高氏を称しており、渤海時代に張氏が登場しないのも不思議ではない。竇氏について、金毓黻(中国語版)は『渤海国志長編(朝鮮語版)』において、渤海時代に比較的多くみえる賀氏の誤りである可能性を指摘している。王氏は、王庭筠(中国語版)をはじめ、金代にも有力氏族として存在するが、王庭筠(中国語版)の墓誌にその祖が太原王氏出身であると記されているように、金代においては渤海人というより漢人として意識されていたために、『松漠紀聞』は、王氏を渤海の有力氏族のなかに数えなかった可能性がある。有力氏族が中国風姓名をもって史料にはじめて登場するのは高氏および李氏が大武芸時代、王氏・烏氏・楊氏が大欽茂時代であるが、大欽茂時代に渤海の支配領域がほぼ定まり、中国文化および中国の制度を導入して国家体制を整備し、かかる状況下で支配者層は中国風の教養を身に着けるとともに中国風姓名を称するようになる。同時期に有力氏族以外で中国風姓名をもつ者は少数であることから、有力氏族のもつ中国風姓名は権威の象徴、あるいは唐の貴族制では、姓によるランク付けがおこなわれており、渤海においてもそれが意識されていた可能性がある。 韓国では『松漠紀聞』に「其王旧以大為姓、右姓曰、高・張・楊・賓・烏・李、不過数種、部曲・奴婢無姓者、皆従其主」とあり、この渤海の姓は、高、張、楊、竇、烏、李などわずか数種であり、奴婢や姓のない者はその所有者に従うという記事を根拠に、渤海の住民構成は支配層が高句麗系とする主張がある。また、韓国では、日本に派遣された渤海使臣のほとんどは高氏などの高句麗上層階級出身者であり、他国に使臣として派遣された高位官職が高句麗系であるならば、渤海支配層は高句麗系とみるべきであり、 渤海は10%の高句麗人の上層構造、90%の靺鞨族の下層構造からなる社会との見解がある。 『韓国民族文化大百科事典』は、以下の主張をしている。 발해는 건국집단의 구성이나 지배집단의 성씨(姓氏) 구성에서 고구려계통의 사람들이 주도권을 쥐고 있었다.특히 지배층의 성씨에서 고구려계통의 고(高)씨가 다수를 점하고 있고, 발해 초기의 지배층들이 묻혀 있는 육정산(六頂山)고분군에서 고구려식 석실봉토분(石室封土墳)이 핵심을 이루고 있는 것도 이를 뒷받침한다.渤海は建国集団の構成や支配集団の姓氏の構成で、高句麗系の人々が主導権を握っていた。特に支配層の姓氏で高句麗系の高氏が多数を占めており、渤海初期の支配層が埋葬されている六頂山古墳群で高句麗式石室封土墳が中核を成しているのも、これを裏付けている。 — 한국민족문화대백과사전、남북국시대(南北國時代) 宋基豪(朝鮮語: 송기호、ソウル大学)は、渤海の支配階層の多くを占める大氏は、血統としては靺鞨系であるが、すでに高句麗化が進んだ大祚栄集団の末裔であり、高氏は、大祚栄集団と行動をともにした営州の高句麗系あるいは遼東地方(安東都護府)から大祚栄集団に加わった高句麗系であると推定しており、渤海の支配層の姓氏構成をみると、現在までに知られている渤海人は遺民を含めて400人ほどであり、このうち大氏が117人で、高氏は63人にのぼり、この二つの姓氏だけみても、渤海の支配層は高句麗系が主軸を成していることが分かり、残りの姓氏も高句麗系である可能性が高いため、渤海の支配層は高句麗系で構成されており、渤海は靺鞨系高句麗人である大祚栄と大祚栄を支援した高句麗系の人物が主導権を握った国であり、特に高句麗系であることが明確な高氏(高氏=高句麗王姓)が有力な貴族として絶対多数を占めていたという事実は、渤海の高句麗継承性を明確に示していると主張している。朴時亨は、支配勢力の名字の分析を通じて、渤海の政治権力の核心は高句麗人であり、靺鞨人は非支配層であると主張している。 一方、魏国忠(黒竜江省社会科学院歴史研究所)と郭素美(黒竜江省社会科学院歴史研究所)は、高句麗人である高氏の階級を分析した結果、官職を持っている高氏の最高官職は、中央の場合は「少卿(中国語版)」、地方の場合は「州刺史」、武官では散位が「輔国将軍(中国語版)」「中郎将」であり、高句麗人である高氏は貴族や支配的地位とは無関係の低位であり、渤海の支配層が高句麗人であるなら、何故高句麗人である高氏は貴族や支配的地位とは無関係の低位であるのかと反論しており、渤海の主体民族や支配勢力が高句麗人という主張は根拠がないと主張しており、渤海王家は200年の間大氏であり、現在知られている380人の渤海人のうち117人が大氏であり、大氏が王政の核心地位を終始占めていたことからみると、大祚栄が粟末靺鞨人であるならば、主体民族や支配勢力は粟末靺鞨であり、その地位は終始変わっていないと主張している。 小川裕人は、遼では払涅靺鞨の後身の烏惹の酋長が烏昭度・烏昭慶という烏姓を称しており、また金初期に生女直までが競って漢名を称したこともあり、靺鞨人が高句麗人や漢人に倣って漢名を称したこともあり得るため、渤海人が漢名を称したとしても高句麗の遺臣と考える必要はないと述べている。
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