紀末成とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 紀末成の意味・解説 

紀末成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/07 13:46 UTC 版)

 
紀 末成
時代 平安時代初期
生誕 天応元年(781年
死没 天長2年12月4日826年1月15日
官位 従四位上越前守正四位上
主君 嵯峨天皇淳和天皇
氏族 紀氏
父母 父:紀古佐美
兄弟 咋麻呂広浜、男仲、與須賀、道成、末成、女子
安麻呂、安根
テンプレートを表示

紀 末成(き の すえなり)は、平安時代初期の貴族大納言紀古佐美の九男。官位従四位上越前守正四位上

経歴

幼い頃から理解が早くて賢く、書籍を博覧していた。延暦19年(800年)20歳にして仮に式部丞に抜擢され、これは異例のことであり、当時の議論となったが容認された。

弘仁元年(810年薬子の変が発生している最中に従五位下に叙せられる。のち、伊予介出雲守常陸守大和守越前守と地方官を歴任する。越前守在任中には、同国の加賀郡について国府から遠く往還に不便で郡司郷長が不法を働いても民が訴えることができずに逃散する、国司の巡検が困難との理由を上げ、建国の提案を行っている。これを受けて弘仁14年(823年)3月に太政官を下して越前国のうち加賀郡・江沼郡の二郡を分割して加賀国を建てて中国とした[1]。また同年12月には大雪により加賀と平安京との往還が不能となったことから、存問渤海客使が停止され、代わりに加賀守の末成が渤海使の慰問を担当した[2]

なお、この間に弘仁10年(819年)従五位上、弘仁12年(821年正五位下に昇叙されるなど、嵯峨朝末にかけて順調に昇進し、淳和朝初頭の天長元年(824年)には従四位上に至った。

天長2年12月4日(826年1月15日)卒去享年45。最終官位は越前守従四位上。即日正四位上追贈された。

人物

地方官を長く務めたが、首尾良く務め上げたとして知られた。しかし、一方でその名声には実が伴っておらず、長きを絶ちて短きを以て継ぐといったやり方で辻褄合わせをするような所があったという[3]

官歴

六国史』による。

系譜

脚注

  1. ^ 『日本後紀』弘仁14年3月1日条
  2. ^ 『日本後紀』弘仁14年12月8日条
  3. ^ a b 日本後紀』天長2年12月4日条
  4. ^ a b 鈴木真年『百家系図稿』巻9,上司

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「紀末成」の関連用語

紀末成のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



紀末成のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの紀末成 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS