鳥屋尾氏とは? わかりやすく解説

鳥屋尾氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 14:02 UTC 版)

鳥屋尾満栄」の記事における「鳥屋尾氏」の解説

鳥屋尾氏は藤原北家御神本流一つ三隅氏の支流称している。南北朝時代石見国における南朝総大将であった三隅家四代にあたる三隅兼連鳥屋尾山(この地で「とやごう」と呼ぶ)に城を築き三男二男説あり)の兼雄を配置した。兼雄が鳥屋尾氏の初代である。三隅兼連は弟・兼冬が築いた井村城の主も兼任していたために、子の一人の兼時を井村兼武の養子とした。井村兼時は鳥屋尾氏の家督継ぎ同氏2代目数えられる。 兼雄の長女石見国司・日野邦光の室となり、良妻賢母誉れもあって四位の位を与えられた。その事から「四位御局」と呼ばれた。彼女の娘の阿佐殿は、三浦氏出身の兼雄の室に石見黒沢村麻ヶ迫の屋敷大切に育てられた後吉野祖父日野邦光頼り同地に赴き、後亀山天皇入内し、中宮となるという三隅氏では異例出世をした。入内後には後亀山天皇との間に小倉宮生んだ小倉宮の子万寿寺宮と呼ばれた。これにより兼雄は四位御局の父にして、日野氏外戚であり、同時に中宮阿佐殿の祖父となった。これにより三隅氏の繁栄頂点に達する史書には「石見から出したるこの賢女誇りは、また永く滅せざるべし」とあり、四位御局所領は今の島根県那賀郡雲城村大字七条御局給と、同郡岡見村御局田にあり、史書によれば黒沢村椎の森と、井野村 鳥屋尾城の麓に植えて永く四位御局記念とせり」とある。 石見における南朝勢力衰えると、鳥屋尾氏は、石見離れ南朝勢力盟主存在であった北畠氏仕えた考えられる北畠氏は後に戦国時代には国司として伊勢に赴き、戦国大名化するが、その家臣団にも鳥屋尾氏は名を連ねて石見守」を名乗っている。 応永7年1400年)の足利義満による南北朝合一後も更に鳥屋尾氏は南朝後南朝方に組みし、兼雄の孫の正時曾孫・正武は後亀山天皇皇孫 万寿寺宮を奉じて吉野朝廷仕えた。正武は大内義弘足利義満背いて堺浦戦った応永の乱の時も大内氏援けたが、敗れて美濃国走り浪死した。正武の子正義潜竜院(後小倉宮)を奉って山名方に加わり応仁の乱後潜竜院を供奉して、石見国七条御局給籠院谷(金城町)に匿った。潜竜院はしばらく同地に留まったが、ほどなく離れ邑智郡矢上中野口羽などを放浪し遂に備後国香淀にて死去した南北統一後、持明院統による両統更立の説を拒み尚も大覚寺統奉じ鳥屋尾正武・正義らは三隅家の系図より省かれた。しかし父子の、義理堅い人物像は今も文献によって伝わっている。 また楠木氏にも同じ名が登場される。(正時正義正信同一人物不明だ系図には正輝(正義ひ孫)時、明覺寺建立とある。

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