日本への引き渡し
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 00:33 UTC 版)
「ピーテル・ノイツ」の記事における「日本への引き渡し」の解説
オランダ人は、ノイツと浜田の争いにより江戸幕府が閉ざした、収益性が高い交易を再開することを強く望んでいた。しかし、幕府への働きかけはことごとく失敗に終わり、結局、ノイツを日本に送還し、将軍の裁きを仰ぐことになった。これは前例のないことであり、オランダ政府のノイツに対する強い不快感と、日本との貿易を再開したいという強い願望の表れであった。また、日本のような東アジアの強国と対峙したときのオランダの相対的な弱さも示すものであり、近年の歴史学では、オランダはこれらの国の慈悲に頼って地位を維持していたと考えられている。 1636年にオランダ領東インド政府総督のアントニオ・ヴァン・ディーメンがアムステルダムのVOC本部に宛てた手紙の内容を見れば、彼がオランダ当局に与えた影響の大きさがわかる。 当社に甚大な不利益をもたらした、マーチヌス・ソンク、ピーテル・ノイツ、ピーテル・ヴラック、アントニオ・ファン・デン・フーヴェルなどの例を見るに、このような高い知性を持った人たちが、この業界で害よりも貢献をもたらすのか疑問である...当社は、経験豊富で用心深い商人からこそ、より良い資源を享受することができるのではないか。 —Anthony van Diemen ノイツは1632年から1636年にかけての日本での軟禁を経て釈放され、バタヴィアに送還された。この期間中、彼はキケロ、セネカ、タキトゥスなどの作家による古典ラテン語の書物を収集して、ゾウやナイル川デルタなどをテーマにした論考を書き、修辞的な技法の練習をして過ごした。ノイツはまた衣料品や食料品に湯水の如く金を使い、これを負担しなければならないVOCの頭痛の種となった。 ノイツは1636年に監禁から解放されたが、これは1627年の訪日の際にノイツの通訳を務め面識があったフランソワ・カロンの尽力によるものであったと考えられる。ノイツは日本から帰還すると、VOCから罰金を科された後、懲戒解雇され、オランダに送り返された。
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