日本への帰国後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 18:20 UTC 版)
軍事教育を受け育った横井は、「生きて本土へは戻らぬ決意」で出かけた記憶がしっかりとあった。このため帰国の際、羽田空港で空港に出迎えに来た斎藤邦吉厚生大臣に、「何かのお役に立つと思って恥をしのんで帰って参りました」、「グアム島敗戦の状況をつぶさにみなさんに知ってもらいたくて恥ずかしいけれども帰って参りました」と伝えた。またその後の記者会見では「恥ずかしながら生きながらえておりましたけども」と発言した。これらの言葉をとらえて「恥ずかしながら帰って参りました」がその年の流行語となった。また、当時東京五輪(1964年)や大阪万博(1970年)、及び高度経済成長に沸いていた日本国民は、横井の帰国によって「まだ戦争は終わっていなかった」という現実を突きつけられた。 同年2月2日14時から60分間にわたり、NHKで放送された報道特別番組『横井庄一さん帰る』は、41.2%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)の高視聴率を記録した。また、愛知県の実家に帰る横井を撮ろうと取材陣が殺到し、既に故人となっていた母の墓前で思わず泣き崩れる彼の様子も撮影された。 体調や病気の有無を調べるため、国立病院医療センターに入院。退院後、母の親族が暮らす愛知県名古屋市中川区富田町にある家に居住した。 ほどなくして今後の生活費を心配する人たちの善意により全国から寄付金が殺到したが、横井は「人寄せパンダのようだ」と感じて一時人間不信になった。そんな苦境を救ったのが1972年8月に見合いをした、12歳年下の京都の女性・幡新美保子の存在だった。同年11月、2人は熱田神宮で結婚式を挙げ、翌1973年2月に名古屋市内に念願の新居を完成させてそこで暮らし始める。
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