マッキューン=ライシャワー式考案
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 00:14 UTC 版)
「エドウィン・O・ライシャワー」の記事における「マッキューン=ライシャワー式考案」の解説
日本への帰国後は東京帝国大学文学部の初の外国人特別研究生となり、同年7月にはパリ大学の学生だったアドリエン (Adrienne Darnton) と東京で結婚した。その後京都帝国大学文学部国史学科の特別研究生となり、円仁の日記の翻訳などを手がけた。1938年(昭和13年)には京城(現在のソウル)に3か月滞在し、ジョージ・M・マッキューンとともに朝鮮語ローマ字の表記として有名になる「マッキューン=ライシャワー式」を考案した。 その後日中戦争最中の1937年(昭和12年)11月に北京へ向かい、燕京大学で研究活動を行う傍ら中国文化院で中国語を学んだ。これに先立つ8月には、研修のため日本と中国を訪れた、実兄でプリンストン大学教授のロバート・カール・ライシャワー博士 (Dr. Robert Karl Reischauer, 1907年-1937年) が、訪問先の上海で中華民国国軍機の爆撃を受け死亡した(国民党軍機による上海空爆)。1938年(昭和13年)にはハーバード大学に戻り、日本語と中国語の講師となり、1939年(昭和14年)には『入唐求法巡礼行記』の研究で博士号を授与された。
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