ロシアの鴨緑江への進出
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「龍岩浦事件」の記事における「ロシアの鴨緑江への進出」の解説
1902年1月、日本はイギリスとの間で日英同盟を結んだ。当時のイギリスは、世界各地でロシアと対立していた(グレート・ゲーム)。1902年4月、ロシアは清国と満州還付に関する露清条約を結び、ロシア軍は満州からの撤兵を始めたものの、ロシア将軍エヴゲーニイ・アレクセーエフは撤兵に反対していた。1903年1月、アレクサンドル・ベゾブラーゾフがロシア全権大使として極東に到着し、アレクセーエフはベゾブラーゾフの支持を得て撤兵を中断した。 また、ロシア将軍アレクセイ・クロパトキンの軍隊は「森林伐採事業を支援するため」として鴨緑江方面に進出した。クロバトキン将軍は自著の中で、「(ロシアの)対満鮮策を妨害するヨーロッパ人を排斥する」ことを目的とする「北朝鮮に防御陣地を作って兵卒五千名と砲その他をもった分隊を配置する計画」をアバーザ提督より渡されたと記している。 帝政ロシアのウラジーミル・ラムスドルフ外相とセルゲイ・ヴィッテは、「ベゾブラーゾフ一派のこの行動は日露戦争を誘致する」としてベゾブラーゾフ一派と対立した。ベゾブラーゾフと対立していたセルゲイ・ヴィッテの回顧録によれば、ベゾブラーゾフは以前より以下のように述べていたという。 ベゾブラゾフの説くところは斯うであった。『我々は断じて朝鮮を放棄するわけには行かない。しかし我々は関東州占領後、日本との急激な衝突を避けるためにやむなく朝鮮を放棄したのである。少なくとも公式には一度朝鮮を放棄したのである。だから今となっては、かくれた非公式の手段で朝鮮に勢力を扶植するよりほかに途はない。それには全たく個人的な性質をおびた各種の利権を獲得しなければならない。そして実際は政府が指導者となって、組織的に漸次に朝鮮を占領するのである』 — セルゲイ・ヴィッテ『ウイッテ伯回想記 上巻』 同年3月26日、ロシア帝国は三大臣が「譲歩政策」の方針に署名した。同年4月、木商会社の代表「クンスブルグ」が鴨緑江山林事業の開始を韓国皇帝に通告した。 同年5月7日、ロシア帝国は会議で「『譲歩政策』は結局我々を戦争に導びく」「ロシアの経済的利益は、その利益を保護するため極東において武装の必要を生じた」とする覚書を承認し、ロシア帝国はこの新方針に基づき、以下の決議を行った。 一、鴨緑江の朝鮮側の河岸で主権を握ること。このため該事業に軍略的色彩をかくさず且つ朝鮮政府よりの利権獲得を具体化せざること。二、鴨緑江の支那側沿岸にて利権を獲得せずに主権を握ること。三、該事業に外人を参加せしめざること。四、外人をして満州に干渉せしめざること。 — アレクセイ・クロパトキン『満州悲劇の序曲』 上記の決議に基づき、帝政ロシアは1903年4月の第二次撤兵はおこなわず、同月、龍岩浦において土地の買収を開始し、要塞を起工して、ポート・ニコラスという軍港を築き、朝鮮半島北部への軍事支配をおよぼそうとしたのである。日本も、これに対し、1902年6月からの日清追加通商条約交渉において満洲への経済的進出をはかり、1903年10月に日清追加通商航海条約に調印した。
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