ナイチンゲール看護団の入団拒否
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「メアリ・シーコール」の記事における「ナイチンゲール看護団の入団拒否」の解説
しかし時代は、大国同士の戦争へと進みます。1853 年、ロシアとトルコの間で対立が生じ、クリミア戦争が勃発した。翌年、ロシアの進出を嫌うイギリスとフランスがトルコ側の支援に回り、同盟を結んだ。 1854 年秋には、ナイティンゲールがイスタンブルのスクタリ(Scutari)で負傷兵に対する看護を開始している。 その頃、メアリーはジャマイカで、ロシアに対する戦争が開戦し、クリミア戦争における戦場の医療の惨状を知ったメアリーは、自身の能力を生かすため、ボランティアの看護師としてクリミアでイギリス軍に尽力することを切望したという。クリミア戦争勃発時の心情について、メアリーは以下のように語っている。「どこかの戦争のことを聞いたら、私は一刻も早くその戦場で力になりたいたいと切望していました。そして、私がよく知っているたくさんのジャマイカ兵たちが行動を起こすためにイギリスへ旅立ったと聞くと、なおさら彼らと行動をともにしたいという願望は強まっていったのです。」そのため単身ロンドンへ赴きました。 1854 年の秋、メアリーはロンドンに到着し、クリミアでの看護を繰り返しイギリス当局に申請した。具体的には、戦争局(the War Office)医療局(the Medical Department)、さらにはナイティンゲールに続く看護師の第二部隊の採用担当者といった複数の機関・人物にメアリーは申請したが、それらの努力は実らなかった。(ナイチンゲールとの面談記録は途中から途切れ紛失している) 黄熱病やコレラといった強力な感染病の治療に対する専門的知識を有していたにも拘わらず、イギリス諸機関からクリミア戦争における看護実践の度重なる拒否を受け、メアリーはひどく失望したという。近年の研究では、メアリー以外にも、クリミア戦争における看護師の出願を、人種のために拒否された例があることが明らかになっている。1855 年、メアリーは自力でクリミア半島への渡航費と医療物資を調達し始める。そのとき、メアリーの協力者となったのが、運送業のためにクリミア半島へ向かおうとしていたトーマス・デイ(Thomas Day)だった。二人は、軍人に対して食料や飲料を販売する「軍商人(sutlers)」として現地に赴き、同年3月にトルコに到着した。その後、7 月にメアリーとデイはクリミア半島で激しい戦地となったバラクラヴァ(Balaclava)の郊外に位置した軍基地の近くで、ナティンゲールの病院よりもさらに前線の近くで持ち前の商才でホテル・食堂・雑貨商店を創業したのである。そこでは、全ての地位の軍人に対して、宿泊所、食料や物資、そして看護ケアが供給された。メアリーが戦地で行った看護ケアの中には、彼女がそれまでのキャリアの中で身につけてきた伝統的な薬草による治療も含まれていた。そして、ジャマイカ時代にコレラの治療で名をあげたメアリーのもとに参じてくる負傷兵を敵味方に関係なく治療して軍医にも勝るとも劣らない成果をあげる。クリミア戦争が終結を迎える1857年3月まで、メアリーは戦場の前線近くで、地位や国籍に関わらない全ての軍人に対する看護ケアを継続した。 だがメアリーが戦うのは病気や肌の違いに起因する階級差別だけではなく、無法地帯ともいうべき当地での使用人に至るまでの日常茶飯事の盗み、果ては殺人に至るまでの難事だ。 クリミア戦争が終結した当時、施設内には過剰な物資と個人的な明細票が残り、メアリーは危機的な経済状況にあったという。戦後メアリーが破産状態で帰国した時に、戦場で手当てを受けた無数の名もない兵士や遺族たち及び高官たちが基金を設ける。二度目の破産の時にはヴトクトリア女王も支援した。 メアリーの明るく人に好かれる性格は最高司令官のラグラン卿をはじめ軍の高官とも親しい関係を築いた。さらに史上初めての従軍記者と言われるタイムズ紙の記者が同年6月にクリミア戦争におけるメアリーの存在を大きく報道し、彼女の戦地における貢献は社会的な評価を獲得した。
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