二代目賛平とレート化粧料
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 04:16 UTC 版)
「平尾賛平商店」の記事における「二代目賛平とレート化粧料」の解説
1898年(明治31年)1月、初代平尾賛平が死去、二代目(平尾聚泉)が社長に就任、同年6月、東京市日本橋区の明治座での新狂言公演『児雷也豪傑譚語』で、児雷也役の市川團十郎 (9代目)の背景に商品名「日本美人」の看板のある錦絵広告を出した。 1908年(明治41年)には大阪に支店を出して関西進出、同年、「ダイヤモンド歯磨」を「金剛石牙粉」と称して中国大陸にも進出、北京、天津、香港にも「広告隊」を出した。二代目は、広告に工夫をこらし、1918年(大正7年)、クリームと白粉をセットした画期的商品「レートメリー」を発売した。明治から大正にかけて、同社の「レート化粧料」(LAIT TOILET)は、大阪の中山太陽堂の「クラブ化粧品」と人気を競い、「東のレート、西のクラブ」と称された。 1874年(明治7年)深川生まれ、慶應義塾正科を1891年(明治26年)に卒業した二代目平尾賛平こと平尾聚泉は古銭収集で知られ、新聞に広告を打って募集し古銭を買い集めた。1929年(昭和4年)3月には、「平尾太郎」名義で著書『平尾賛平商店五十年史』(平尾賛平商店)を出版、1932年(昭和7年)、聚泉は『昭和泉譜』を著し、1937年(昭和12年)には「平尾賛平」名義で『初代平尾賛平小伝』を著し、出版する。1938年(昭和13年)、同社の創業60周年を記念し、寛永通寳のような古銭を模した記念コインを発行する。聚泉の古銭を所蔵する邸宅は「平尾麗悳莊」として知られ、多くの和綴の古銭拓本を制作した。このころ、京城(現在のソウル特別市)にも進出し、現地紙『東亜日報』に広告を打ち、京城三越百貨店(現・新世界百貨店)のある中心街の本町(現忠武路)に「レートクレーム」と大書した巨大な広告塔を建てた。 第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)、同社は「レート」に商号変更したが、 1954年(昭和29年)、会社更生法の申請が認められず、創業76年にして廃業した。 現代音楽の作曲家・平尾貴四男は二代目平尾賛平の四男、作曲家・歌手の平尾昌晃(出生名・勇)は二代目平尾賛平の孫、ともに慶應義塾出身である。聚泉の著書『昭和泉譜』は、のちの1974年(昭和49年)に『古貨幣図録・昭和泉譜』(歴史図書社)として復刊した。 クレームレート夏の広告 (『アサヒグラフ』、1924年) 京城府本町(現忠武路)の広告塔
※この「二代目賛平とレート化粧料」の解説は、「平尾賛平商店」の解説の一部です。
「二代目賛平とレート化粧料」を含む「平尾賛平商店」の記事については、「平尾賛平商店」の概要を参照ください。
- 二代目賛平とレート化粧料のページへのリンク