二代目豊澤團平を襲名
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師匠團平の実家である加古家では、大團平の遺志を以て「豊澤團平」の名跡を豊澤仙左衛門に相続させることとした。 これに伴い、明治40年(1907年)6月15日、師匠團平の高弟である豊澤團七、豊澤龍助、豊澤小團二が三者平等の立場で立会いの上、「二代目團平名義を使用候儀は相続と借用との区別を明かに承諾の事師名拝借仕候事に相違無之候也」と二代目團平名義貸与の契約書を交わした。これにより仙左衛門は一代を限り團平を襲名することに決した。 仙左衛門改め二代目豊澤團平襲名披露は同年7月東京明治座『仮名手本忠臣蔵』で行われた。翌々月の9月には大阪市の側堀江座にても襲名披露を行った。襲名披露狂言は『摂州合邦辻』「合邦内の段 切」。太夫は三代目竹本大隅太夫であった。晩年は舞台から引退し、東京日本橋矢の倉へ移り住んだ。 大正10年(1921年)5月5日、64歳で生涯を閉じた。鶴澤清六か豊澤團平かという人生であった。戒名は慈音院釋團平居士。大阪市木津勘助町唯専寺に墓所があったと伝わる。 墓(碑)は高野山に師匠初代團平と並んで建てられている。
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