海外進出と貴族院
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1939年(昭和14年)、中山太陽堂を株式会社化、中山は初代代表取締役社長に就任した。翌1940年(昭和15年)には、満州国奉天(現中華人民共和国遼寧省瀋陽市)に中山太陽堂奉天工場を開設、操業を開始した。 1939年(昭和14年)9月10日、57歳のとき、帝国議会貴族院の多額納税者選挙、9月29日に貴族院議員に勅任した。1947年(昭和22年)5月2日の貴族院の廃止まで議員をつとめた。会派は「研究会」に属した。 1945年(昭和20年)、63歳のとき、第二次世界大戦の終戦を迎える。翌1946年(昭和21年)、中山太陽堂の金属部に自転車試作車をつくらせ、「中山号」が完成した。また「中山文化研究所」はこのころまで活動を続けていた。1954年(昭和29年)、72歳のときに、中山太陽堂社長職を辞し、神栄生絲株式会社(現神栄株式会社)の社長・田代竹司が第二代社長に就任した。同年、かつて「東のレート、西のクラブ」と呼ばれたレート化粧品(平尾賛平商店)は解散している。 1956年(昭和31年)10月18日に死去。満74歳没。
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