大阪冬の陣とは? わかりやすく解説

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おおさか‐ふゆのじん〔おほさかふゆのヂン〕【大坂冬の陣】

読み方:おおさかふゆのじん

慶長19年(1614)冬、京都方広寺鐘銘事件口実に徳川家康豊臣氏大坂城攻めた戦い秀頼の軍の奮戦で城は落ちず、いったん和議結んだ。→大坂夏の陣


大坂の陣

(大阪冬の陣 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/10 14:35 UTC 版)

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府豊臣家(羽柴宗家)との間で行われた合戦。大の陣とも表記する。大坂の役(おおさかのえき)とも呼ばれている。




注釈

  1. ^ このことによって、豊臣家が一大名に転落したとする見解と(今谷明『武家と天皇』)、豊臣家が西国を支配する二重公儀体制になったとする見解がある(笠谷和比古)
  2. ^ 関ヶ原の戦いの直後に九条兼孝関白に任官したことにより、秀頼が関白就任への可能性を絶たれたとする見解(今谷明『武家と天皇』)もある。慶長10年には兼孝の次に摂関家の近衛信尹が関白に任じられている。
  3. ^ 2人の応対や礼法などを分析し、この会見について秀頼が家康に臣従させられた(今谷明、本多隆成、渡邊大門)、対等な立場での会見であった(笠谷和比古)と両方の見解がある。
  4. ^ これをもって秀頼の臣従は成っていないとする見解(笠谷和比古)と、秀頼を慮りつつ孤立化を図ったとする解釈がある(渡邊大門)。
  5. ^ 慶長11年に、家康は朝廷より武家官位推挙権を獲得していた。豊臣家は依然として徳川幕藩体制の外にあり、幕府の制定した法令には縛られないというのが豊臣側の論理である。
  6. ^ また、家康は林羅山放伐論の是非を問うなど、主家である豊臣家を討つことの倫理的な問題をどう解決すべきか苦悩したといわれているが[8]、この時期の林羅山は家康に対して大きな発言権はないとする近年の研究もある[9]
  7. ^ これは国家安康(家康)と君臣豊楽(秀頼)の文言が鐘に並んで(しかも後者の方が一段高く)刻印されていることを指していると考えられる。
  8. ^ 接収米の内訳は福島正則分八万石、徳川家分三万石(ただし、接収を免れたという説もある。)、諸大名分三万石、商人からの買米二万石。
  9. ^ この軍議が実際にこの内容で行われたかどうかどうか、行われたとすればいつかについてははっきりしない。ただ、浪人衆入城が10月6日、同日に家康より伏見へ出陣を命じられた近畿の諸大名が現地に着いたのが16日なので、浪人衆が唱えたとされる策は現実性は乏しい(また、伏見城には平時より城代松平定勝大番2組等が詰めている)
  10. ^ ただし、11月28日に小堀政一に命じて蔵米8万石と豊臣氏の没収知行米5万8千石を兵糧とするように命じているので、徳川方の兵糧不足は一時的なものと思われる
  11. ^ この時、家康はかねてから公家たちに求めていた「古今礼義式法之相違」に関する意見の提出を両名に督促しており、豊臣氏との合戦と並行して翌年制定される禁中並公家諸法度の制定に向けて意見の集約を進めていたことが分かる[47]
  12. ^ 大名や家康近臣、宣教師の記録には二の丸破壊の記述があり、当代記や複数の覚書には二の丸破壊は記されていない
  13. ^ 現在の大阪城公園内には天守閣北側の山里丸跡に「自刃の地」と記した碑があるが、落城・焼失後に江戸幕府が再建した際に縄張りを改めており、豊臣時代のものとは位置に若干の相違がある。

出典

  1. ^ 河内将芳『秀吉の大仏造立』法藏館、2008年 p.56
  2. ^ 大林組『秀吉が京都に建立した世界最大の木造建築 方広寺大仏殿の復元』 2016年
  3. ^ 河内将芳『秀吉の大仏造立』法藏館、2008年 p.130-131
  4. ^ NIKKEI STYLE 古きを歩けば(47)「豊臣の盛衰刻んだ大仏の梵鐘」 河内将芳の解説より
  5. ^ 笠谷 2007, p. 180.
  6. ^ 毛利輝元書状(『萩藩閥閲録』)、『義演准后日記』慶長七年十二月晦日条、『鹿苑日録』慶長八年四月二十日条(当時の僧録西笑承兌)など。
  7. ^ a b c d e f 渡邊 2012, pp. 33–65
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 笠谷 2007, pp. 204–215
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m 渡邊 2012, pp. 68–82
  10. ^ a b 光成準治 2020, pp. 178.
  11. ^ NIKKEI STYLE 古きを歩けば(47)「豊臣の盛衰刻んだ大仏の梵鐘」 河内将芳の解説より
  12. ^ 渡邊 2012, p. 178.
  13. ^ 河内将芳『秀吉の大仏造立』法藏館、2008年 p.112
  14. ^ 河内将芳『秀吉の大仏造立』法藏館、2008年 p.127
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  20. ^ 一部は「方広寺鐘銘事件」笠谷 2007『関ヶ原合戦と大坂の陣』pp204-215に記載
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  71. ^ 「秀頼に落とされ死んだ」大坂の陣、オランダで新文書”. 朝日新聞 (2016年9月21日). 2016年12月3日閲覧。
  72. ^ a b c 「大坂の陣」巨大陣図が見つかる 最古級・最大級毎日新聞、2018年4月4日




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