ほしな‐まさゆき【保科正之】
保科 正之 (ほしな まさゆき)
1611〜1672 (慶長16年〜寛文12年) |
【会津藩主】 会津の名君。腹違いの兄家光の遺言で、家綱の名補佐役に。 |
会津23万石の藩主。徳川家光の異母弟。父秀忠の命で保科氏の養子となる。1643年会津藩の大名として入部すると、幕府に先駆けて殉死を禁じるなど、藩政を改革した。家光の遺言で4代家綱を補佐し、武断政治から文治政治に転換する幕政を主導した。殉死の禁は正之の献策。玉川上水開墾の建議も行った。 |
年(和暦) | ||
●1612年 (慶長17年) | ■幕府直轄領に禁教令 | 1才 |
●1612年 (慶長17年) | ■駿府の銀座を江戸に移す | 1才 |
●1614年 (慶長19年) | ■大阪冬の陣 | 3才 |
●1615年 (元和元年) | ■大阪夏の陣 | 4才 |
●1617年 (元和3年) | ■日光東照宮社殿竣工 | 6才 |
●1617年 (元和3年) | ■吉原遊郭の開設許可 | 6才 |
●1624年 (寛永元年) | ■スペイン船の来航禁止 | 13才 |
●1629年 (寛永6年) | ■女舞・女歌舞伎の禁止 | 18才 |
●1637年 (寛永14年) | ■島原の乱 | 26才 |
●1639年 (寛永16年) | ■ポルトガル船の来航禁止 | 28才 |
●1641年 (寛永18年) | ■平戸商館を長崎出島に移す | 30才 |
●1643年 (寛永20年) | ■田畑永代売買禁止令 | 32才 |
●1651年 (慶安4年) | ■慶安の御触書公布 | 40才 |
●1659年 (万治2年) | ■江戸城本丸造営竣工 | 48才 |
●1663年 (寛文3年) | ■武家諸法度改定 | 52才 |
・由井 正雪 | 1605年〜1651年 (慶長10年〜慶安4年) | +6 |
・徳川 和子 | 1607年〜1678年 (慶長12年〜延宝6年) | +4 |
保科正之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 21:33 UTC 版)
保科 正之(ほしな まさゆき)は、江戸時代前期の大名。会津松平家初代。信濃国高遠藩主、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩初代藩主。江戸幕府初代将軍徳川家康の孫、二代将軍秀忠の子にあたる。3代将軍・徳川家光の異母弟で、家光と4代将軍・家綱を輔佐し、幕閣に重きをなした。将軍の「ご落胤」でもある。
注釈
出典
- ^ 福田千鶴『江の生涯』中公新書、2010年。
- ^ “保科正之は江戸時代初期の会津藩主。…”. 西日本新聞ニュース (2016年4月16日). 2020年10月6日閲覧。
- ^ a b c 長谷川 2005, p. 19.
- ^ 長谷川 2005, p. 18.
- ^ 長谷川 2005, p. 22.
- ^ 長谷川 2005, p. 20.
- ^ 義民のあしあと『白岩義民(間沢村三霊供養碑(東泉寺))』
- ^ 『会津事始』「七木八草四壁竹本御定法事」
- ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、73-74頁。
- ^ 氏家幹人『江戸時代の罪と罰』草思社、2015年、76-78頁。
- ^ 『図説 福島県史』
保科正之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/26 10:06 UTC 版)
鳥居家改易後、保科正之が寛永13年(1636年)7月に信濃高遠藩3万石から山形20万石に加増移封された。正之は徳川秀忠の息子で、家光の異母弟である。しかし3万石の身代がいきなり20万石となったことから、急ぎ家臣団の増強を図ることを余儀なくされた。そこで家光より命じられ、改易された鳥居家の旧臣の召抱えを行なったが、正之は鳥居家旧臣も人柄を見て召抱えたという。 正之は奉行制度を整備して民政を整え、家臣の掟として「家中仕置」18条と「道中法度」13条を制定し、武芸・忠孝・質素倹約から喧嘩口論・大酒好色の禁止などを定めた。また正之は寛永15年(1638年)から翌年にかけて藩内検地を行なった。寛永20年(1643年)7月、3万石加増の23万石で陸奥会津藩へ加増移封された。
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