戦国時代、安土桃山時代とは? わかりやすく解説

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戦国時代、安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 16:36 UTC 版)

佐久間氏」の記事における「戦国時代、安土桃山時代」の解説

佐久間(大学允)盛重(?-1560年) 桶狭間の戦い前哨戦丸根砦守備し討死佐久間信盛(1528年-1582年) 信長重臣石山本願寺攻略担当。後に追放佐久間信栄(1556年-1632年) 信盛の嫡子旗本佐久間家の祖となった佐久間盛政(1554年-1583年) 「鬼玄蕃」の異名知られる猛将賤ヶ岳の戦い中川清秀討ち取る佐久間安政(1555年-1627年) 後に信濃飯山藩3万石藩祖となった佐久間勝之(1568年-1634年) 後に信濃長沼藩1万8,000石の藩祖となった佐久間実勝(1570年-1642年)佐久間将監の名で知られる茶道・宗可流の開祖。[要出典]

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戦国時代・安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 06:39 UTC 版)

岩村城」の記事における「戦国時代・安土桃山時代」の解説

1570年元亀元年遠山氏最後城主遠山景任であったが、甲斐国武田氏家臣で、信濃伊那郡大島城拠点伊那郡であった秋山虎繁信友)が東濃侵攻上村での戦い勝利し西進してきたが、織田方の武将明智光廉(三宅長閑斎)が小田でこれを撃退した上村合戦)。 1571年元亀2年12月3日、景任が病没すると信長は5男で幼少の坊丸(織田勝長)を遠山氏養子とした。後見信長叔母にあたる女性通称おつやの方など)で幼少養子に代わって女城主として差配振るった1572年元亀3年10月信玄大軍率いて遠江徳川家康攻撃するために出陣し同時に再び虎繁に岩村城攻略命じた岩村城武田方に包囲されたが信長は諸戦で助けに来ることができず、おつやの方秋山虎繁婚姻するという条件降伏1573年元亀4年2月末に虎繁はおつやの方を妻に迎えた信長物見のように1万人の兵を連れて岩村城周辺布陣した。3月15日馬場信春雑兵と共に800人で織田勢を攻め岡部正綱50騎、越中30騎、飛騨30騎、110騎の中から若者3435人が織田勢を追いかけて、臥せ引き下がる雑兵27人の首を取った織田勢は岐阜退却したその後岩村城落城して岩村遠山氏降参し信長直参35騎が首を取られた。(岩村城の戦い)。 1575年天正3年同年5月21日長篠の戦いの後、武田勢弱体化した期に乗じ信長岩村城奪還行った信長嫡男信忠総大将攻城戦行い5ヶ月にわたる戦闘の後武田勝頼後詰が間に合わず城は陥落した開城の際、虎繁の助命約されていたが織田方はこれを翻し、虎繁夫妻ら5名が長良川河川敷逆さ磔となり処刑された。織田方の城となった後、河尻秀隆城主となり城の改造行い現在の城郭に近いものとなった1582年天正10年織田氏による甲州征伐が行われたが、武田氏天目山の戦い滅亡するまで 信長信濃足を踏み入れることをせず岩村城滞在して戦果報告受けていた。武田氏滅亡後は、河尻秀隆甲斐国移封となり、団忠正居城となるが3ヶ月経たぬ内に本能寺の変で忠正は戦死岩村城信濃国から戻った森長可接収し、長可死後森忠政引き継いだ。この時の城代となった森氏家老各務元正は、この後17年費やし近代城郭変貌させ、現在の城郭が完成した1584年天正12年)、小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康元に逃れていた明知遠山氏遠山利景攻め寄せるも、元正により退けられる。 1599年慶長4年豊臣秀吉死後森忠政信濃国松代移封となると田丸直昌入城1600年慶長5年関ヶ原の戦い大阪城であった直昌は西軍となり、城は本領復帰を狙う遠山利景再度攻められる戦後田丸氏改易されると、松平家乗入城した。(東濃の戦い) 1601年慶長6年家乗山上にあった城主居館を城の北西山麓移し城下町整備した

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戦国時代・安土桃山時代

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松代城」の記事における「戦国時代・安土桃山時代」の解説

正確な築城時期不明戦国期には甲斐国武田晴信信玄)が信濃侵攻開始し北信豪族庇護し越後国長尾景虎上杉謙信)との北信川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展する千曲川河畔海津城は川中島地域拠点城郭として整備され、『甲陽軍鑑』に拠れば武田氏北信国衆である清野氏の館を接収し武田家足軽大将山本勘助命じて築城され、『軍鑑』に拠れば本城には小山田虎満備中守)、二曲輪に市川等長・原与惣左衛門配置されたという。 文書においては海津城の築城1559年永禄2年)から開始され(『信濃史料12巻 - 250号)、翌年には完成している(『軍鑑』)。築城屋代氏香坂氏川中島四郡(更級郡埴科郡高井郡水内郡)の国衆担ったという。 海津城は東条城尼飾城とともに上杉氏への最前線位置する永禄4年1561年9月上杉氏川中島侵攻すると、海津城の城代である武田家臣・春日虎綱(高坂昌信)は海津城において篭城信玄本隊到着待ち9月10日には八幡原において両軍決戦が行われたという(第四次川中島の戦い)。 また海津城は川中島四郡における領国支配国衆支配拠点としても機能し城代である春日虎綱郡代権限持っていたと考えられている。 天正10年1582年3月武田氏滅亡後には、武田遺領のうち信濃川中島四郡を支配した織田氏家臣森長可居城となる。森長可武田遺臣の子息や近隣の村から人質集めたが彼らを住まわせたのがこの海津城、あるいは海津城下であったという。同年6月本能寺の変が起こると森長可信濃放棄して退却する事を決断し海津城の人質を盾にして美濃へと退却し海津城も無人のまま捨て置かれた。以後空白地帯となった信濃へと侵入した上杉氏支配となったが、1598年慶長3年)に上杉景勝会津転出の後は豊臣秀吉蔵入地となり、城主には田丸直昌任じられた。 甲州流築城術特徴強く持ち武田氏築城代表的な城の一つである。千曲川背後控え本曲輪三方から二の曲輪囲み甲州流築城術特徴である丸馬出及び三日月堀を有す平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城海津城(松代城)と構造的に非常に似通っている。

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戦国時代・安土桃山時代

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忍城」の記事における「戦国時代・安土桃山時代」の解説

1478年文明10年)ごろ、地元豪族であった成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家属する忍一族滅ぼし築城したといわれている。翌年、これに反発する扇谷上杉家忍城攻められるものの、同家家宰太田道灌仲介によって和解して以後成田氏領有した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}河越夜戦後、北条氏関東勢力伸ばすが、成田氏はこれに反発した。[要出典] 1559年永禄2年)、上杉謙信関東遠征してくると成田氏はこれに恭順した。1561年永禄4年の上謙信による小田原城攻めには、当時城主成田長泰参加している(小田原城の戦い)。しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反1574年天正2年)には上杉謙信忍城包囲され城下に火を放たれたが持ちこたえている。 1590年天正18年)、豊臣秀吉関東平定の際、城主成田氏長小田原城にて籠城。『忍城戦記』などによれば氏長叔父成田泰季城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵農民町人など3,000人が忍城立てこもった忍城の戦い)。豊臣方忍城攻め総大将石田三成で、大谷吉継長束正家真田昌幸等も加わった三成は、本陣忍城一望する丸墓山古墳埼玉古墳群)に置き、近く流れ利根川利用した水攻めを行うことを決定し総延長28kmにおよぶ石田堤建設した。しかし忍城落城せず、結局は小田原城先に落城したことによる開城となった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となった

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戦国時代・安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:32 UTC 版)

人吉城」の記事における「戦国時代・安土桃山時代」の解説

戦国時代になると相良氏球磨地方統一する。しかし、家督問題内訌生じた後の大永6年1526年7月14日日向真幸院を治め北原氏率いた大軍一向宗率いていたともいわれる)により人吉城包囲される相良義滋は策を用いて北原氏追い返し事なきを得たが、これが相良氏入城後の人吉城他家攻められ唯一の出来事となったその後19当主相良義陽によって天正年間1573年 - 1593年)より城の大改修始められた。途中に度々改修中断があり、22代頼寛の寛永16年1639年漸く近代城郭生まれ変わった戦国時代相良氏南の島津氏北原氏、北の名和氏大友氏などに絶え脅かされよく耐えていたが天正9年1581年)に島津氏降伏し臣従する。その後義陽の子相良頼房天正15年1587年羽柴秀吉九州征伐の際に奮戦するもこれに降伏家臣深水長智交渉により再び独立領主として人吉城領地安堵された。 慶長5年1600年)の関ヶ原の戦いでは当初石田三成方(西軍)に付き伏見城などを攻めるが、本戦石田方が敗れると徳川方東軍)に内応戦功挙げ徳川家康より2万2千石領地安堵された。

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戦国時代・安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:01 UTC 版)

河野氏」の記事における「戦国時代・安土桃山時代」の解説

戦国時代に入ると、予州家との抗争終息したものの、有力国人反乱河野氏内部での家督争い相次いで起こり、その国内支配強固なものとすることはできなかった。16世紀前半河野氏宗家当主河野通直(弾正少弼)のとき、家臣団や有力武村上通康巻き込む形で子の河野晴通・通宣兄弟家督めぐって争いが起こる。この争いは晴通の死と通直失脚収束したが、これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになる。この隙を突いて周防大内氏攻撃激化芸予諸島概ね大内方制圧するところとなる。結果的に来島村上氏平岡氏、能島村上氏といった新たに台頭した有力国人勢力政権運営強く依存する形となり、末期には軍事的に毛利氏支援支えられるなど、強力な戦国大名へ脱皮はかなわなかった。この頃河野一族は、戦乱絶えず、一族そろって無事に正月迎えることが難しかったため、旧暦12月の、巳の日に先祖墓前一家よりそって餅を食す「みんま」という慣わしができた。これは、現在も愛媛県中予地方中心に家々受け継がれている。 国内には喜多郡宇都宮豊綱大野直之宇和郡西園寺氏らの河野氏属さない勢力存在しまた、土佐一条氏豊後大友氏讃岐三好氏との間に争いが続くが、同盟縁戚関係築いた安芸毛利氏支援強く受けることとなったその後も、長宗我部氏侵攻天正9年1581年)の来島通総離反など苦難続いた天正13年1585年)、豊臣秀吉四国征伐において、通直伊予守)も小早川隆景説得受けて降伏し通直大名としての道を絶たれ新たな伊予支配者となった小早川隆景元に庇護された。そして天正15年1587年)、通直竹原嗣子無くして没したため、大名として河野氏57をもって滅亡した

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戦国時代・安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:29 UTC 版)

設楽氏」の記事における「戦国時代・安土桃山時代」の解説

設楽三郎貞清 応仁年間の頃の『見聞諸家紋』に見られる設楽助太郎 文明14年1482年)の本土寺鐘名に「下総州勝鹿郡風早平賀長谷山本土寺推鐘 右 高祖以来相當第十番師/日瑞得求之 奉施入檀那設楽助太郎大伴継長」とある。 設楽出雲守行暹、設楽左衛門尉、設楽出雲蓮行位本土寺過去帳』に見られる人物設楽三郎 長享元年1487年)、『長享元年九月十二日常院殿江州御動座当時在陣衆着到』に見られる設楽貞重 設楽城主享禄2年1529年)、松平清康牛久保城牧野貞成西郷城の西郷信貞二連木城戸田宣光田峰城野田城菅沼定則とともに降伏する(『徳川実紀』)。 陸奥守内設楽越前父子 永禄12年1569年)、北条氏照配下(『甲陽軍鑑』)。 設楽新八郎 天正11年1583年)、由良成繁家来として館林城籠城した(『新田老談記』)。 設楽新三郎 天正年間の頃、長尾顕長家来(『新田老談記』)。 設楽甚三郎貞光 天正12年1584年)、蟹江城合戦下市場城の大手(攻め方)『小牧始末記』)。 設楽左衛門尉 天正13年1585年)『房総治乱記』。 設楽左ヱ門大夫長隆 天正年間の頃、川中島の戦い活躍し長篠の戦い武田方の落武者として、上樋越(現玉村町樋越)に落ちのびた。百足丸刀所有者設楽金太夫 北条氏邦家臣設楽氏館(埼玉県秩父郡皆野町金沢)を築く(天正年間の頃)。

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戦国時代・安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/16 07:40 UTC 版)

小姓」の記事における「戦国時代・安土桃山時代」の解説

小姓には主に若年者就いた平時には秘書のような役割こなした戦時行軍のときは特に主君の盾として命を捨てて守る役目大きかったため、幅広い知識一流作法武芸を身につけてなくてはならなかった。このため成長する主君側近として活躍する者も多かったまた、主君戦国大名小姓男色対象とした例も数多く見られた。 詳細は「衆道」を参照 豊臣秀吉徳川家康は、大名家の子弟を小姓という名目事実上人質とっていた。その後泰平の世となると次第変化をみせた。

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戦国時代・安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 16:45 UTC 版)

九鬼氏」の記事における「戦国時代・安土桃山時代」の解説

戦国時代初期九鬼氏伊勢北畠氏仕えていたが、北畠氏勢力範囲弱まると、織田信長幕下入った信長北畠氏侵攻した際、当時当主であった九鬼嘉隆織田勢を後ろ盾に、妻の実父である宗忠他、付近小勢制圧し志摩国一円手中に収めた。 その後九鬼氏九鬼水軍織田家織田信長)の海戦部隊として伊勢長島一向一揆討滅戦において活躍石山本願寺攻略戦において、第二次木津川口の戦いでは鋼鐵外板覆った鉄鋼船を用いて能島村上氏率い毛利水軍ことごとく追い払った信長没後織田信雄仕えたが、蟹江城合戦にて羽柴秀吉方に寝返り天正13年1585年)、従五位下大隅守叙位任官された。九州征伐小田原征伐参加し文禄・慶長の役では水軍主力として功を挙げたこのような戦功結果紀伊半島制海権与えられ5万石の大名になったこの後嘉隆息子守隆に家督譲って隠居するこうした経歴から、江戸時代には軍記物などで海賊大名異称をとった。

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戦国時代・安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/26 05:29 UTC 版)

日本の獣肉食の歴史」の記事における「戦国時代・安土桃山時代」の解説

戦国時代になると、南蛮貿易などを通じた食品輸入本格化した。この時代には新大陸南北アメリカ大陸)の食材もたらされている。ジャン・クラッセ (Jean Crasset) の『日本西教史』には「日本人は、西洋人馬肉忌むのと同じく、牛、豚、羊の肉を忌む牛乳飲まない。猟で得た野獣肉を食べるが、食用家畜はいない」と書かれている宣教師ルイス・フロイスの『日欧文化比較』には「ヨーロッパ人牝鶏・パイ・プラモンジュなどを好む。日本人野犬大猿・生の海藻などをよろこぶ」 「ヨーロッパ人食べないで、牛を食べる。日本人は牛を食べず家庭薬として見事に食べる」と書かれている宣教師フランシスコ・ザビエル日本の僧の食習慣真似て肉食をしなかったが、その後宣教師信者にも牛肉勧め1557年弘治3年)の復活祭では買った牝牛殺して飯に炊き込んで信者振舞っている。『細川家御家譜』には、キリシタン大名高山右近小田原征伐の際、蒲生氏郷細川忠興牛肉料理振る舞ったことが書かれている曲直瀬道三養子曲直瀬玄朔医学書日用食性』の中で、獣肉を羹(具がメインスープ)、煮物、膾、干し肉として食すればさまざまな病気治す解説している。ただし当時医学書には中国文献引き写し多く日本では手に入らない食材なども書かれており、実際に行われてたかどうかは明らかではない。また、戦国時代末期日本語収録した日葡辞書』には「Cacho ブタ」と記されており、地方によっては豚(家)が飼われいたものと見られるまた、戦国末期からは阿波などで商業捕鯨始まっている。阿波三好氏拠点勝瑞城館跡地では、牛馬に豚やなどの骨が数多く出土しており、食用だけでなくの餌や、愛玩用として家畜飼われ、肉が市場流通していたと考えられている。徳島県藍住町教育委員会は、当時食事研究し三好義興京都将軍歓待し時の本膳料理再現したその時材料には、ウズラシャモクジラサケ使用された。 ただし京などで獣肉一般的に食されていたとは言えず、例え秀吉後陽成天皇聚楽第招いた際の献立にも入れられていない。特に牛馬の肉を食べることは当然の禁忌であり、1587年天正15年)、秀吉宣教師ガスパール・コエリョに対して牛馬売り買い殺し、食う事、これまた曲事たるべきの事」と詰問し、それに対してコエリョは「ポルトガル人は牛は食べるが馬は食べない」と弁明をしている。

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