戦国時代、安土桃山時代
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佐久間(大学允)盛重(?-1560年) 桶狭間の戦いの前哨戦で丸根砦を守備し討死。 佐久間信盛(1528年-1582年) 信長の重臣。石山本願寺の攻略を担当。後に追放。 佐久間信栄(1556年-1632年) 信盛の嫡子。旗本佐久間家の祖となった。 佐久間盛政(1554年-1583年) 「鬼玄蕃」の異名で知られる猛将。賤ヶ岳の戦いで中川清秀を討ち取る。 佐久間安政(1555年-1627年) 後に信濃飯山藩3万石の藩祖となった。 佐久間勝之(1568年-1634年) 後に信濃長沼藩1万8,000石の藩祖となった。 佐久間実勝(1570年-1642年)佐久間将監の名で知られる。茶道・宗可流の開祖。[要出典]
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戦国時代・安土桃山時代
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1570年(元亀元年) 遠山氏最後の城主は遠山景任であったが、甲斐国の武田氏の家臣で、信濃伊那郡の大島城を拠点に伊那郡代であった秋山虎繁(信友)が東濃に侵攻、上村での戦いに勝利し西進してきたが、織田方の武将明智光廉(三宅長閑斎)が小田子村でこれを撃退した(上村合戦)。 1571年(元亀2年) 12月3日、景任が病没すると信長は5男で幼少の坊丸(織田勝長)を遠山氏の養子とした。後見は信長の叔母にあたる女性(通称はおつやの方など)で幼少の養子に代わって女城主として差配を振るった。 1572年(元亀3年)10月、信玄は大軍を率いて遠江の徳川家康を攻撃するために出陣し、同時に再び虎繁に岩村城の攻略を命じた。岩村城は武田方に包囲されたが信長は諸戦で助けに来ることができず、おつやの方は秋山虎繁と婚姻するという条件で降伏。 1573年(元亀4年)2月末に虎繁はおつやの方を妻に迎えた。信長は物見のように1万人の兵を連れて岩村城周辺に布陣した。3月15日に馬場信春が雑兵と共に800人で織田勢を攻め、岡部正綱50騎、越中衆30騎、飛騨衆30騎、110騎の中から若者34~35人が織田勢を追いかけて、草に臥せて引き下がる雑兵27人の首を取った。織田勢は岐阜へ退却した。その後、岩村城は落城して岩村遠山氏は降参し、信長直参の35騎が首を取られた。(岩村城の戦い)。 1575年(天正3年) 同年5月21日の長篠の戦いの後、武田勢が弱体化した期に乗じ信長は岩村城奪還を行った。信長は嫡男・信忠を総大将に攻城戦を行い5ヶ月にわたる戦闘の後、武田勝頼の後詰が間に合わず城は陥落した。開城の際、虎繁の助命が約されていたが織田方はこれを翻し、虎繁夫妻ら5名が長良川河川敷で逆さ磔となり処刑された。織田方の城となった後、河尻秀隆が城主となり城の改造を行い現在の城郭に近いものとなった。 1582年(天正10年)織田氏による甲州征伐が行われたが、武田氏が天目山の戦いで滅亡するまで 信長は信濃へ足を踏み入れることをせず岩村城に滞在して戦果の報告を受けていた。武田氏が滅亡後は、河尻秀隆が甲斐国に移封となり、団忠正の居城となるが3ヶ月と経たぬ内に本能寺の変で忠正は戦死。岩村城は信濃国から戻った森長可が接収し、長可死後は森忠政が引き継いだ。この時の城代となった森氏家老、各務元正は、この後約17年を費やし近代城郭へ変貌させ、現在の城郭が完成した。 1584年(天正12年)、小牧・長久手の戦いにおいて、徳川家康の元に逃れていた明知遠山氏の遠山利景が攻め寄せるも、元正により退けられる。 1599年(慶長4年)豊臣秀吉の死後、森忠政が信濃国松代に移封となると田丸直昌が入城。 1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで大阪城番であった直昌は西軍となり、城は本領復帰を狙う遠山利景に再度攻められる。戦後、田丸氏が改易されると、松平家乗が入城した。(東濃の戦い) 1601年(慶長6年) 家乗は山上にあった城主居館を城の北西山麓に移し城下町を整備した。
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戦国時代・安土桃山時代
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正確な築城時期は不明。戦国期には甲斐国の武田晴信(信玄)が信濃侵攻を開始し、北信豪族を庇護した越後国の長尾景虎(上杉謙信)との北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展する。千曲川河畔の海津城は川中島地域の拠点城郭として整備され、『甲陽軍鑑』に拠れば武田氏は北信国衆である清野氏の館を接収し、武田家足軽大将の山本勘助に命じて築城され、『軍鑑』に拠れば本城には小山田虎満(備中守)、二曲輪に市川等長・原与惣左衛門が配置されたという。 文書上においては海津城の築城は1559年(永禄2年)から開始され(『信濃史料』12巻 - 250号)、翌年には完成している(『軍鑑』)。築城は屋代氏、香坂氏ら川中島四郡(更級郡、埴科郡、高井郡、水内郡)の国衆が担ったという。 海津城は東条城・尼飾城とともに上杉氏への最前線に位置する。永禄4年(1561年)9月に上杉氏が川中島へ侵攻すると、海津城の城代である武田家臣・春日虎綱(高坂昌信)は海津城において篭城し信玄本隊の到着を待ち、9月10日には八幡原において両軍の決戦が行われたという(第四次川中島の戦い)。 また海津城は川中島四郡における領国支配・国衆支配の拠点としても機能し、城代である春日虎綱は郡代的権限を持っていたと考えられている。 天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後には、武田遺領のうち信濃川中島四郡を支配した織田氏家臣の森長可の居城となる。森長可は武田遺臣の子息や近隣の村から人質を集めたが彼らを住まわせたのがこの海津城、あるいは海津城下であったという。同年6月に本能寺の変が起こると森長可は信濃を放棄して退却する事を決断し、海津城の人質を盾にして美濃へと退却し海津城も無人のまま捨て置かれた。以後は空白地帯となった信濃へと侵入した上杉氏の支配となったが、1598年(慶長3年)に上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の蔵入地となり、城主には田丸直昌が任じられた。 甲州流築城術の特徴を強く持ち、武田氏築城の代表的な城の一つである。千曲川を背後に控え、本曲輪を三方から二の曲輪が囲み、甲州流築城術の特徴である丸馬出及び三日月堀を有す。平城としては駿河江尻城が、平山城としては信濃岡城が海津城(松代城)と構造的に非常に似通っている。
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戦国時代・安土桃山時代
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1478年(文明10年)ごろ、地元の豪族であった成田正等・顕泰父子がこの地を支配していた扇谷上杉家に属する忍一族を滅ぼし、築城したといわれている。翌年、これに反発する扇谷上杉家に忍城を攻められるものの、同家の家宰太田道灌の仲介によって和解して以後、成田氏が領有した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}河越夜戦後、北条氏が関東に勢力を伸ばすが、成田氏はこれに反発した。[要出典] 1559年(永禄2年)、上杉謙信が関東に遠征してくると成田氏はこれに恭順した。1561年(永禄4年)の上杉謙信による小田原城攻めには、当時の城主の成田長泰も参加している(小田原城の戦い)。しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式後に離反。1574年(天正2年)には上杉謙信に忍城が包囲され、城下に火を放たれたが持ちこたえている。 1590年(天正18年)、豊臣秀吉の関東平定の際、城主・成田氏長は小田原城にて籠城。『忍城戦記』などによれば氏長の叔父・成田泰季を城代とし、約500人の侍や足軽のほか、雑兵、農民、町人など3,000人が忍城に立てこもった(忍城の戦い)。豊臣方の忍城攻めの総大将は石田三成で、大谷吉継、長束正家、真田昌幸等も加わった。三成は、本陣を忍城を一望する丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置き、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うことを決定し、総延長28kmにおよぶ石田堤を建設した。しかし忍城は落城せず、結局は小田原城が先に落城したことによる開城となった。このことが、忍の浮き城という別名の由来となった。
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戦国時代・安土桃山時代
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戦国時代になると相良氏は球磨地方を統一する。しかし、家督問題で内訌が生じた後の大永6年(1526年)7月14日、日向真幸院を治める北原氏が率いた大軍(一向宗を率いていたともいわれる)により人吉城は包囲される。相良義滋は策を用いて北原氏を追い返し事なきを得たが、これが相良氏入城後の人吉城が他家に攻められた唯一の出来事となった。 その後、19代当主の相良義陽によって天正年間(1573年 - 1593年)より城の大改修が始められた。途中に度々改修の中断があり、22代頼寛の寛永16年(1639年)漸く近代城郭に生まれ変わった。 戦国時代の相良氏は南の島津氏や北原氏、北の名和氏や大友氏などに絶えず脅かされよく耐えていたが天正9年(1581年)に島津氏に降伏し臣従する。その後、義陽の子・相良頼房は天正15年(1587年)羽柴秀吉の九州征伐の際に奮戦するもこれに降伏、家臣・深水長智の交渉により再び独立領主として人吉城と領地を安堵された。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初は石田三成方(西軍)に付き伏見城などを攻めるが、本戦で石田方が敗れると徳川方(東軍)に内応し戦功を挙げ、徳川家康より2万2千石の領地を安堵された。
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戦国時代・安土桃山時代
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戦国時代に入ると、予州家との抗争は終息したものの、有力国人の反乱や河野氏内部での家督争いが相次いで起こり、その国内支配を強固なものとすることはできなかった。16世紀前半の河野氏宗家の当主・河野通直(弾正少弼)のとき、家臣団や有力武将村上通康を巻き込む形で子の河野晴通・通宣兄弟と家督をめぐって争いが起こる。この争いは晴通の死と通直の失脚で収束したが、これにより河野氏はさらに衰退してゆくことになる。この隙を突いて、周防の大内氏の攻撃が激化、芸予諸島は概ね大内方の制圧するところとなる。結果的に、来島村上氏や平岡氏、能島村上氏といった新たに台頭した有力国人勢力に政権運営を強く依存する形となり、末期には軍事的にも毛利氏の支援に支えられるなど、強力な戦国大名への脱皮はかなわなかった。この頃の河野一族は、戦乱が絶えず、一族そろって無事に正月を迎えることが難しかったため、旧暦12月の、巳の日に先祖の墓前で一家よりそって餅を食す「みんま」という慣わしができた。これは、現在も愛媛県中予地方を中心に各家々で受け継がれている。 国内には喜多郡の宇都宮豊綱、大野直之、宇和郡の西園寺氏らの河野氏に属さない勢力が存在し、また、土佐の一条氏、豊後の大友氏、讃岐の三好氏との間に争いが続くが、同盟、縁戚関係を築いた安芸の毛利氏の支援を強く受けることとなった。その後も、長宗我部氏の侵攻や天正9年(1581年)の来島通総の離反など苦難は続いた。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の四国征伐において、通直(伊予守)も小早川隆景の説得を受けて降伏し、通直は大名としての道を絶たれ、新たな伊予の支配者となった小早川隆景の元に庇護された。そして天正15年(1587年)、通直が竹原で嗣子無くして没したため、大名としての河野氏は57代をもって滅亡した。
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戦国時代・安土桃山時代
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設楽三郎貞清 応仁年間の頃の『見聞諸家紋』に見られる。 設楽助太郎 文明14年(1482年)の本土寺鐘名に「下総州勝鹿郡風早庄平賀長谷山/本土寺推鐘 右 高祖/以来相當第十番師/日瑞得求之 奉施入/檀那設楽助太郎大伴継長」とある。 設楽出雲守行暹、設楽左衛門尉、設楽出雲蓮行位 『本土寺過去帳』に見られる人物。 設楽三郎 長享元年(1487年)、『長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』に見られる。 設楽貞重 設楽城主。享禄2年(1529年)、松平清康に牛久保城の牧野貞成、西郷城の西郷信貞、二連木城の戸田宣光、田峰城・野田城の菅沼定則らとともに降伏する(『徳川実紀』)。 陸奥守内設楽越前父子 永禄12年(1569年)、北条氏照の配下(『甲陽軍鑑』)。 設楽新八郎 天正11年(1583年)、由良成繁の家来として館林城に籠城した(『新田老談記』)。 設楽新三郎 天正年間の頃、長尾顕長の家来(『新田老談記』)。 設楽甚三郎貞光 天正12年(1584年)、蟹江城合戦の下市場城の大手(攻め方)『小牧陣始末記』)。 設楽左衛門尉 天正13年(1585年)『房総治乱記』。 設楽左ヱ門大夫長隆 天正年間の頃、川中島の戦いで活躍し、長篠の戦いで武田方の落武者として、上樋越(現玉村町樋越)に落ちのびた。百足丸刀の所有者。 設楽金太夫 北条氏邦の家臣。設楽氏館(埼玉県秩父郡皆野町金沢)を築く(天正年間の頃)。
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戦国時代・安土桃山時代
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小姓には主に若年者が就いた。平時には秘書のような役割をこなした。戦時・行軍のときは特に主君の盾として命を捨てて守る役目が大きかったため、幅広い知識と一流の作法と武芸を身につけていなくてはならなかった。このため、成長すると主君の側近として活躍する者も多かった。 また、主君の戦国大名が小姓を男色の対象とした例も数多く見られた。 詳細は「衆道」を参照 豊臣秀吉、徳川家康は、大名家の子弟を小姓という名目で事実上人質にとっていた。その後、泰平の世となると次第に変化をみせた。
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戦国時代・安土桃山時代
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戦国時代初期、九鬼氏は伊勢北畠氏に仕えていたが、北畠氏の勢力範囲が弱まると、織田信長の幕下に入った。信長が北畠氏を侵攻した際、当時の当主であった九鬼嘉隆は織田勢を後ろ盾に、妻の実父である橘宗忠他、付近の小勢を制圧し、志摩国一円を手中に収めた。 その後、九鬼氏の九鬼水軍は織田家(織田信長)の海戦部隊として伊勢長島の一向一揆の討滅戦において活躍、石山本願寺攻略戦において、第二次木津川口の戦いでは鋼鐵で外板を覆った鉄鋼船を用いて能島村上氏率いる毛利水軍をことごとく追い払った。信長没後は織田信雄に仕えたが、蟹江城合戦にて羽柴秀吉方に寝返り、天正13年(1585年)、従五位下・大隅守に叙位・任官された。九州征伐、小田原征伐に参加し、文禄・慶長の役では水軍の主力として功を挙げた。このような戦功の結果、紀伊半島の制海権を与えられ、5万石の大名になった。この後、嘉隆は息子守隆に家督を譲って隠居する。こうした経歴から、江戸時代には軍記物などで海賊大名の異称をとった。
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戦国時代・安土桃山時代
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「日本の獣肉食の歴史」の記事における「戦国時代・安土桃山時代」の解説
戦国時代になると、南蛮貿易などを通じた食品の輸入が本格化した。この時代には新大陸(南北アメリカ大陸)の食材ももたらされている。ジャン・クラッセ (Jean Crasset) の『日本西教史』には「日本人は、西洋人が馬肉を忌むのと同じく、牛、豚、羊の肉を忌む。牛乳も飲まない。猟で得た野獣肉を食べるが、食用の家畜はいない」と書かれている。宣教師ルイス・フロイスの『日欧文化比較』には「ヨーロッパ人は牝鶏や鶉・パイ・プラモンジュなどを好む。日本人は野犬や鶴・大猿・猫・生の海藻などをよろこぶ」 「ヨーロッパ人は犬は食べないで、牛を食べる。日本人は牛を食べず、家庭薬として見事に犬を食べる」と書かれている。宣教師フランシスコ・ザビエルは日本の僧の食習慣を真似て肉食をしなかったが、その後の宣教師は信者にも牛肉を勧め、1557年(弘治3年)の復活祭では買った牝牛を殺して飯に炊き込んで信者に振舞っている。『細川家御家譜』には、キリシタン大名の高山右近が小田原征伐の際、蒲生氏郷や細川忠興に牛肉料理を振る舞ったことが書かれている。曲直瀬道三の養子曲直瀬玄朔は医学書『日用食性』の中で、獣肉を羹(具がメインのスープ)、煮物、膾、干し肉として食すればさまざまな病気を治すと解説している。ただし当時の医学書には中国文献の引き写しも多く、日本では手に入らない食材なども書かれており、実際に行われていたかどうかは明らかではない。また、戦国時代末期の日本語を収録した『日葡辞書』には「Cacho ブタ」と記されており、地方によっては豚(家猪)が飼われていたものと見られる。 また、戦国末期からは阿波などで商業捕鯨が始まっている。阿波の三好氏の拠点勝瑞城の館跡地では、牛馬に豚や鶏、鯨、犬や猫などの骨が数多く出土しており、食用だけでなく鷹の餌や、愛玩用として家畜が飼われ、肉が市場に流通していたと考えられている。徳島県藍住町教育委員会は、当時の食事を研究し、三好義興が京都で将軍を歓待した時の本膳料理を再現した。その時の材料には、ウズラやシャモ、クジラ、サケが使用された。 ただし京などで獣肉が一般的に食されていたとは言えず、例えば秀吉が後陽成天皇を聚楽第に招いた際の献立にも入れられていない。特に牛馬の肉を食べることは当然の禁忌であり、1587年(天正15年)、秀吉は宣教師ガスパール・コエリョに対して「牛馬を売り買い殺し、食う事、これまた曲事たるべきの事」と詰問し、それに対してコエリョは「ポルトガル人は牛は食べるが馬は食べない」と弁明をしている。
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