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南部信房

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 02:36 UTC 版)

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南部信房
南部信房
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和2年6月15日1765年8月1日
死没 天保6年5月12日1835年6月7日
別名 伊勢入道、俳号:五梅庵畔李
官位 従五位下内蔵頭伊勢守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治家斉
陸奥八戸藩
氏族 南部氏
父母 南部信依:不詳
兄弟 信房、依晴、信真織田長孺正室
正室溝口直養の長女・良姫
側室花月堂李州
養子信真
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南部 信房(なんぶ のぶふさ)は、江戸時代中期の大名陸奥国八戸藩の第7代藩主官位従五位下伊勢守

生涯

第6代藩主・南部信依の長男として誕生。

安永9年(1780年)11月18日、第10代将軍徳川家治御目見する。天明元年(1781年)2月14日、父の死により家督を継ぐ。天明2年12月18日、従五位下内蔵頭に叙任する。寛政8年(1796年)2月13日、養子となっていた弟・信真に家督を譲って隠居した。隠居後は「伊勢入道」と称する。天保6年(1835年)死去。享年71。

信房は俳諧をたしなみ、「五梅庵畔李(ごばいあん はんり)」と号した。八戸の女流俳人の花月堂李州は信房の側室である。

治世

飢饉による財政難により、信房の治世は多難を極めた。天明の大飢饉には八戸藩の有力商人である近江屋、美濃屋、大塚屋]より3000両以上の資金を調達し、他領からの米の買い付け資金にあてたりしている。これらの資金調達の代償として、寛政2年(1790年)から御用商人を家中武士に取り立てることも始めた。これらの方策は、商人たちの藩政に対する影響力を強めることとなった。

藩財政の改革のため、寛政6年(1794年)から寛政7年(1795年)、に八戸近郊の有力商人や五代官所に対して多額の才覚金を徴することも命じたが、領民の反発に遭うなど成果は芳しくなかった。

系譜

参考文献

  • 工藤祐董 著『八戸藩の歴史』八戸市、1999年

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