南部信民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/31 19:38 UTC 版)
![]() 南部 信民 | |
時代 | 江戸時代末期 - 明治時代 |
生誕 | 天保4年4月4日(1833年5月22日) |
死没 | 明治33年(1900年)3月15日 |
別名 | 通称:棋三郎、璋五郎 |
官位 | 従五位下、美作守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家茂→慶喜 |
藩 | 陸奥七戸藩主 |
氏族 | 南部氏 |
父母 |
父:南部信也、母:横浜勇之助の娘 元養父:南部利済、元養母:烈子 -(楢山隆冀の妹) 養父:南部信誉、養母:秀(森長義の娘) |
妻 |
正室:前田利和の娘・睦子 継室:細川興建の娘・磋久子 |
子 |
実子:徳次郎 養子:信方 |
南部 信民(なんぶ のぶたみ)は、江戸時代末期の大名。陸奥国七戸藩の第3代藩主。盛岡藩の家老・三戸式部の従兄弟にあたる。
生涯
天保4年(1833年)4月4日、南部信也の4男として誕生した。父・信也は角屋敷三戸家の3代当主で、信民は南部利視の玄孫にあたる。
嘉永2年(1849年)に南部謹敦が盛岡藩を相続し、謹敦に代わって先代七戸藩主・南部信誉の養嗣子となる。文久2年(1862年)の信誉の死去により家督を相続する。幕末期の動乱の中では本家の盛岡藩と行動を共にし、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加、新政府側に寝返った弘前藩と戦うなどして活躍した。戦後、新政府から罪に問われて領地を1000石削減された上、養嗣子・信方に家督を譲って強制隠居するように命じられた。しかし、跡を継いだ信方は若年だったため、信民が実際の藩政をなおも取り仕切り、牧畜や養蚕などの産業を奨励し、教育普及に尽くすなどしている。
明治33年(1900年)3月15日、68歳で死去した。
系譜
- 父:南部信也(1798-1835)
- 母:横浜勇之助の娘
- 兄:南部済璋(1826-?)
- 兄
- 兄
- 元養父:南部利済(1797-1855)
- 元養母:烈子 - 楢山隆冀の妹
- 養父:南部信誉(1815-1862)
- 養母:秀 - 森長義の娘
- 正室:睦子(1838-1861) - 前田利和の娘
- 長男:徳次郎
- 継室:磋久子(1834-1905) - 細川興建の娘
- 養子
参考文献
固有名詞の分類
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