戊辰戦争の戦後処理の減封
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 15:04 UTC 版)
大名没収減封領地名・禄高その後の動向阿部正静 陸奥棚倉藩10万石 養子正功が6万石への減封で存続許さる。 板倉勝静 備中松山藩5万石 養子勝弼が2万石への減封で存続許さる。後に高梁藩と改称 板倉勝尚 陸奥福島藩3万石 養子勝達が三河重原藩2万8千石への減転封で存続許される 岩城隆邦 出羽亀田藩2万石 養子隆彰が1万8000石への減封で存続許さる 上杉斉憲 出羽米沢藩18万7000石 子茂憲が14万7000石への減封で存続許さる 大久保忠礼 相模小田原藩11万3000石 養子忠良が7万5000石への減封で存続許さる 織田信敏 出羽天童藩2万石 弟寿重丸が1万8000石への減封で存続許さる 久世広文 下総関宿藩4万8万石 弟広業が4万3000石への減封で存続許さる。 酒井忠篤 出羽庄内藩14万石 弟忠宝が12万石への減封で存続許さる。後大泉藩と改称 伊達慶邦 陸奥仙台藩62万石 嫡子宗基が28万石への減封で存続許さる 田村邦栄 陸奥一関藩3万石 弟崇顕が2万7000石への減封で存続許さる 内藤政養 陸奥湯長谷藩1万5000石 養子政憲が1万4000石への減封で存続許さる 南部利剛 陸奥盛岡藩20万石 嫡子利恭が白石藩13万石への減転封で存続許され、後旧領盛岡への復帰許さる 南部信民 陸奥七戸藩1万1000石 養子信方が1万石への減封で存続許さる 丹羽長国 陸奥二本松藩10万石 養子長裕が5万石への減封で存続許さる 本多忠紀 陸奥泉藩2万石 養子本多忠伸が1万8000石への減封で存続許さる 牧野忠訓 越後長岡藩7万4000石 養子忠毅が2万4000石への減封で存続許さる 松平容保 陸奥会津藩23万石 嫡子容大が斗南藩3万石への減転封で存続許さる 松平定敬 伊勢桑名藩11万石 養子定教が6万石への減封で存続許さる 松平信庸 出羽上山藩3万石 弟松平信安が2万7千石への減封で存続許さる 水野勝知 下総結城藩1万8000石 養子勝寛が1万7000石への減封で存続許さる 戊辰戦争の戦後処理は改易がほとんどなく政府に反逆する決定を下した当主本人の蟄居処分と跡継ぎの減封処分で済んだ大名家が多いが、これは戊辰戦争が全封建領主階級を政治的・イデオロギー的に天皇新政権のもとに統合するための戦争であり、朝敵藩の改易を目的とするものではなかったためである。改易になったのは上総国請西藩林家1万石のみだが、この林家にすら改めて300石が下賜されて士族に列した(さらに明治26年に特旨により華族の男爵家に列する)。朝敵藩から没収した総領地高は約100万石だが、主に賞典禄の財源に充てられた。
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