戊辰戦争への出征
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戊辰戦争の開始となる慶応4年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いに先立つこと約1年前の慶応2年(1866年)11月以降、茂昌は約6万両という大金を出して、スペンサー銃600挺やアームストロング砲10門といった大量の最新式兵器を外国から購入し、武雄領兵の軍備を日本でも最強のものとしていった。明治3年から4年にかけて行われた武器調べによれば、武雄領では大砲17門、小銃850挺を所有していた。 このように着々と軍備を強化していく中、慶応4年(1868年)5月、朝廷より藩主・直正に対し、茂昌を速やかに関東に出陣させよ、との命が届く。茂昌は4大隊839人、アームストロング砲4門、フランスボーム砲2門、野砲4門、スペンサー銃も全員に配給するなどの重装備で、6月28日、直正のいる横浜に向けて出発する。 7月4日に神戸に到着すると、朝廷から新潟に行き先変更するよう命じられた。さらに、再出発準備中に、奥羽越列藩同盟を抜け新政府軍について敵陣中に孤立した久保田藩の救援のため、秋田への行き先変更が命じられた。茂昌は明治天皇に拝謁した後、7月22日、神戸を出発、28日に秋田の土崎港に上陸、秋田新屋に陣を構える。 庄内藩を攻めるため、他の新政府軍とともに8月3日に新屋から海沿いに南に進出した。しかしながら、庄内藩は酒田の大地主本間家の献金を元に、最新式銃スナイダー銃などを購入し、士気も高い強藩であった。このため、8月5日、秋田から南に約50kmの平沢における戦闘で、庄内藩兵に敗退し、秋田から南に8kmの長浜まで退却を余儀なくされる。 8月18日、庄内藩兵は秋田への進軍のため、新政府軍に総攻撃をかけるが、新政府軍も反撃し攻防は一進一退に陥る。9月12日、庄内藩兵は秋田に向け再度総攻撃をかけたが、このときは武雄領兵の持つ大砲が威力を発揮し、この攻撃を防ぐ。9月20日、奥羽越列藩同盟が劣勢となったために、庄内藩兵は撤退を開始し、茂昌率いる武雄領兵は久保田藩兵と共に庄内藩兵を追撃する。27日には現在の秋田・山形県境で庄内藩兵と戦闘となったが、同日、庄内藩主酒井忠篤が鶴岡城を出て新政府軍に正式降伏したことから、28日に戦闘は停止され、10月2日、武雄領兵は戦闘を行うことなく酒田に入った。 その後、茂昌は山形、福島を経て明治元年(1868年)11月12日に東京に到着、20日に品川より汽船に乗って25日に武雄に凱旋した。またその勲功を称え、明治新政府より金5,000両を下賜されている。
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