戊辰戦争への出征とは? わかりやすく解説

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戊辰戦争への出征

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 04:56 UTC 版)

鍋島茂昌」の記事における「戊辰戦争への出征」の解説

戊辰戦争の開始となる慶応4年1868年1月3日鳥羽・伏見の戦い先立つこと約1年前の慶応2年1866年11月以降、茂昌は約6万両という大金出してスペンサー銃600挺やアームストロング砲10門といった大量最新式兵器外国から購入し武雄領兵の軍備日本でも最強のものとしていった明治3年から4年にかけて行われた武器調べによれば武雄領では大砲17門、小銃850挺を所有していた。 このように着々と軍備強化していく中、慶応4年1868年5月朝廷より藩主・直正に対し、茂昌を速やかに関東出陣させよ、との命が届く。茂昌は4大隊839人、アームストロング砲4門、フランスボーム砲2門、野砲4門、スペンサー銃全員配給するなどの重装備で、6月28日、直正のいる横浜向けて出発する7月4日神戸到着すると、朝廷から新潟行き先変更するよう命じられた。さらに、再出発準備中に、奥羽越列藩同盟抜け新政府軍について敵陣中に孤立した久保田藩救援のため、秋田への行き先変更命じられた。茂昌は明治天皇拝謁した後、7月22日神戸出発28日秋田土崎港上陸秋田新屋に陣を構える。 庄内藩攻めるため、他の新政府軍とともに8月3日新屋から海沿いに南に進出したしかしながら庄内藩酒田大地主本間家献金元に最新式スナイダー銃などを購入し士気も高い強藩であったこのため8月5日秋田から南に約50km平沢における戦闘で、庄内藩兵に敗退し秋田から南に8kmの長浜まで退却余儀なくされる8月18日庄内藩兵は秋田への進軍のため、新政府軍総攻撃をかけるが、新政府軍反撃し攻防一進一退陥る9月12日庄内藩兵は秋田に向け再度総攻撃をかけたが、このときは武雄領兵の持つ大砲威力発揮し、この攻撃を防ぐ。9月20日奥羽越列藩同盟劣勢となったために、庄内藩兵は撤退開始し、茂昌率い武雄領兵は久保田藩と共に庄内藩兵を追撃する。27日には現在の秋田・山形県境庄内藩兵と戦闘となったが、同日庄内藩酒井忠篤鶴岡城出て新政府軍に正式降伏したことから、28日戦闘停止され10月2日武雄領兵は戦闘を行うことなく酒田入ったその後、茂昌は山形福島経て明治元年1868年11月12日東京到着20日品川より汽船乗って25日武雄凱旋した。またその勲功称え明治新政府より金5,000両を下賜されている。

※この「戊辰戦争への出征」の解説は、「鍋島茂昌」の解説の一部です。
「戊辰戦争への出征」を含む「鍋島茂昌」の記事については、「鍋島茂昌」の概要を参照ください。

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