戊辰戦争における戦歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 22:11 UTC 版)
詳細は「秋田戦争」を参照 戊辰戦争において東北諸藩は奥羽越列藩同盟を結んで新政府軍と戦ったが、庄内藩は会津藩、仙台藩、米沢藩とともにその中心となる藩の一つであった。庄内軍は当初、白河方面を救援する予定で準備を進めていたが、久保田藩や新庄藩など、秋田方面諸藩が新政府側に寝返ったため、白河救援のために移動していた約900人の部隊が急きょ舟形で合流し、新庄城を攻めることとなった。この時、北斗七星を逆さに配した「破軍星旗」の軍旗を掲げた庄内藩二番大隊を指揮していたのが、26歳の酒井了恒であった。 数に勝る新政府軍・新庄藩の連合軍に対して、数に劣る庄内藩は最新兵器と巧みな戦術で反撃した。新庄藩兵は強力な庄内藩兵を前に戦意を喪失し、新庄城から脱走したという。 新庄攻略後、久保田藩領内に北進し幾多の戦闘を繰り返し、横手城を陥落させ、角間川の戦いで大勝を挙げると、わずか2か月足らずで久保田城の目前にまで進軍した。 久保田城攻略の準備を進めている最中、同盟軍の米沢藩・仙台藩が降伏し、庄内藩領内にも敵が出没するという情勢を受け、庄内藩の部隊は一斉に撤退を開始した。これを知った新政府軍は秋田方面の兵力を増強し追撃に回ったが、了恒の見事な采配により一進一退の攻防を繰り返しながら退却を進め、庄内藩兵はほとんど犠牲者を出さずに撤退を完了させた。
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