戊辰戦争と長善館出身者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 04:12 UTC 版)
戊辰戦争の際、長岡藩は河井継之助の指揮の下、奥羽越列藩同盟に加盟し、新政府軍と戦端を開き、北越戦争が勃発した。しかし長岡藩にあっても河井の方針に従わず新政府軍に与した勤皇主義者が存在し、その中に長善館出身者が多くいた。 長善館出身者の高橋竹之介らは、1864年(元治元年)方義隊(後に居之隊と改名)を結成し、同じく長善館出身の長谷川鉄之進も幹部に加わった。他の長善館出身者に窪沢円一、柳下安太郎などがおり、館主の惕軒自身も関与していた。戊辰戦争が始まると、高橋らは長岡藩の情勢を新政府軍に報告し、小千谷談判決裂の一因となったとも言われている。文臺は彼らの活動を良しとしていなかったらしく、文臺と惕軒の間に確執があったことが惕軒の日記からうかがえる。 一方長岡藩に従軍した長善館出身者もいた。長谷川泰は河井継之助に見出されて長岡藩の軍医(三人扶持)となり、戦傷者の治療に当たった。左足に重傷を負った河井を最初に診たのも長谷川であったが、治療の甲斐なく、河井は死去する。別の長善館出身の医師竹山屯は官軍に属し、高崎藩の藩医となったから、同門の出身であり、後の新潟を代表する著名な医者が敵味方に分かれて従軍していたことになる。
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