戊辰戦争・大総督府軍監
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戊辰戦争(明治元年、1868年)では、城下一番小隊に属して伏見の戦いで御香宮に戦い、功をもって小隊の小頭見習いを務めた。東征大総督府下参謀・西郷隆盛が東海道先鋒隊を率いて先発東上した際、城下一番小隊隊長に抜擢されて駿府・小田原を占領した。2月27日、西郷は中村を小田原まで来た輪王寺宮公現法親王のもとに派遣し、西上の事由を尋問して随従してきた諸藩兵を撤退させた。のち、静岡での西郷と山岡鉄舟の会談に立ち会ったとされる。次いで江戸にのぼり、西郷と勝海舟との会談に同席したといわれ、上野の彰義隊との戦いにも西郷指揮のもと黒門口攻撃に参戦した。この戦いののち、河野四郎左衛門を伴っての湯屋からの帰りに神田三河町で一刀流の剣客・鈴木隼人ら3人の刺客に襲われ、1人を斬り撃退したが、左手中指と薬指を失った。この傷は悪化したようで、半次郎は横浜軍陣病院で療養し、7月23日には、薩摩の国学者で歌人・八田知紀の見舞いを受けている。 同年8月21日、大総督府直属の軍監に任じられ、鹿児島・宇都宮の2藩兵を率いて藤原口(日光口)に派遣された。9月1日に大内に到着し、会津若松攻略のための軍議を主催し、栃原進撃を部署した。翌日から4日にかけての関山の戦い、9月5日から8日までの若松南部の戦いを経て若松城近郊へ進出。9月10日、伊地知正治・板垣退助・山縣有朋らと軍議し、攻城の分担区域を定める。この際、指揮下の藤原口部隊は城の南西部が割り当てられたが、実際に部隊が攻城戦に参戦したのは9月14日であった。 9月22日、会津藩降伏後の開城の式では、官軍を代表して城の受け取り役を務めた。イギリス公使館の通訳官だったアーネスト・サトウは、外国事務総督・東久世通禧および神奈川県知事・寺島宗則が各国公使と会見した席で、会津若松開城の知らせを受けたが、同時に「城の受け取りに行った中村半次郎は男泣きに泣いた」と聞いたことを書き残している。このとき半次郎本人が「涙を禁じ得なかった」と語っていたといい、また半次郎が城中の会津藩士に親身になって接してくれたことを謝し、後に松平容保は人を介して宝刀を贈ったという。容保から半次郎に贈られた宝刀とは、金銀造りの大小で、昭和初期、尚古集成館にあったともいわれている。
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