戊辰戦争・大総督府軍監とは? わかりやすく解説

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戊辰戦争・大総督府軍監

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:08 UTC 版)

桐野利秋」の記事における「戊辰戦争・大総督府軍監」の解説

戊辰戦争明治元年1868年)では、城下一番小隊属して伏見戦いで御香宮戦い、功をもって小隊小頭見習い務めた東征大総督府下参謀西郷隆盛東海道先鋒隊を率いて先発東上した際、城下一番小隊隊長抜擢され駿府小田原占領した2月27日西郷中村小田原まで来た輪王寺宮公現法親王のもとに派遣し西上事由尋問して随従してきた諸藩兵を撤退させた。のち、静岡での西郷山岡鉄舟会談立ち会ったとされる次いで江戸にのぼり、西郷勝海舟との会談同席したといわれ、上野彰義隊との戦いにも西郷指揮のもと黒門攻撃参戦した。この戦いののち、河野四郎左衛門伴って湯屋からの帰り神田三河町一刀流剣客鈴木隼人ら3人の刺客襲われ1人を斬り撃退したが、左手中指薬指失った。この傷は悪化したようで、半次郎横浜軍陣病院療養し7月23日には、薩摩の国学者歌人八田知紀見舞い受けている。 同年8月21日、大総督府直属軍監任じられ鹿児島宇都宮の2藩兵を率いて藤原口(日光口)に派遣された。9月1日大内到着し会津若松攻略のための軍議主催し栃原進撃部署した。翌日から4日にかけての関山戦い9月5日から8日までの若松南部の戦い経て若松城近郊進出9月10日伊地知正治板垣退助山縣有朋らと軍議し、攻城分担区域定める。この際指揮下の藤原口部隊は城の南西部割り当てられたが、実際に部隊攻城戦参戦したのは9月14日であった9月22日会津藩降伏後開城の式では、官軍代表して城の受け取り役を務めたイギリス公使館の通訳官だったアーネスト・サトウは、外国事務総督東久世通禧および神奈川県知事寺島宗則各国公使会見した席で、会津若松開城知らせ受けたが、同時に「城の受け取り行った中村半次郎男泣き泣いた」と聞いたことを書き残している。このとき半次郎本人が「涙を禁じ得なかった」と語っていたといい、また半次郎城中会津藩士に親身になって接してくれたことを謝し、後に松平容保は人を介して宝刀贈ったという。容保から半次郎贈られ宝刀とは、金銀造り大小で、昭和初期尚古集成館にあったともいわれている。

※この「戊辰戦争・大総督府軍監」の解説は、「桐野利秋」の解説の一部です。
「戊辰戦争・大総督府軍監」を含む「桐野利秋」の記事については、「桐野利秋」の概要を参照ください。

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