戊辰戦争以後とは? わかりやすく解説

戊辰戦争以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 08:14 UTC 版)

諸生党」の記事における「戊辰戦争以後」の解説

慶応4年1月1868年2月)、戊辰戦争が始まると、諸生党対す追討命令朝廷から出された。これにより水戸藩戻った本圀寺党をはじめとする天狗党残党諸生党の間で再度抗争起こり今度賊軍となった諸生党はたちまち勢力失い市川らは水戸脱して会津向かった武田金次郎天狗党が藩内での権力を掌握すると、諸生党やその家族に対して激し報復が行われ、各地多く諸生党士民処刑されたり投獄されたりした。 水戸脱した市川ら約500名の諸生党軍は「市川勢」等と称され奥羽越列藩同盟傘下入って新政府軍との戦闘に加わることとなる。市川らはまず会津城下を目指すが、会津藩から越後方面防衛依頼され柏崎に向かう。北越戦争の際には出雲崎駐屯しており、会津藩桑名藩等の隊と共に柏崎周辺新政府軍と戦うが、椎谷、灰爪などでの戦闘敗れ数十名の戦死者出して弥彦退却する7月29日長岡城陥落し8月中旬越後方面戦線崩壊すると、会津藩兵らと共に会津撤退したその後新政府軍会津侵攻すると市川らは会津藩指揮下に入って会津戦争を戦う。冬坂峠の守備についていたが、8月21日母成峠陥落し新政府軍会津若松城に迫ると城下戻り土佐藩兵を主力とする新政府軍大手門付近戦ってこれを撃退入城して城の防衛に就く。その後会津藩家老佐川官兵衛指揮下で城外において戦っていたが、9月22日会津藩降伏する9月25日田島会津藩降伏知った市川らは越後長岡藩兵や回天隊などと合流して会津藩領を脱し会津戦争参戦のため防備手薄になっている思われ水戸城目指す出発した一行人数500人とも1,000人とも言われる。だが早くも9月27日片府田(現・大田原市片府田)で大田原藩兵・彦根藩兵などの軍勢捕捉され戦死者6名を出し退く(片府田戦い)。さらには佐良土(現・大田原市佐良土)にて黒羽藩兵と交戦し11人の死者を出す(佐良土戦い)。 水戸藩領内入り天狗党側の守備隊破りながら9月29日水戸城下に到着するも、城の守り堅く入城することができなかったため、名前の由来となった弘道館占拠して立て籠もる。これに対し天狗党軍は10月1日攻撃開始激し銃撃戦が行われたが、諸生党同行してきた諸隊戦意乏しかったため、諸生党のみが奮戦する形となった諸生党軍は天狗党軍に戦死者87名と大きな損害与えたが、諸生党軍も戦死者90名ほか多く負傷者出し、翌10月2日夜になって退却した弘道館戦争)。再び水戸脱した諸生党軍は玉造潮来経て10月4日銚子において小見川藩兵と高崎藩兵の攻撃を受け敗走した10月6日八日市場(現・匝瑳市)に逃れた水戸藩天狗党軍の追撃を受け、松山村(現・匝瑳市松山)にて朝比奈弥太郎以下多数戦死者出して、ついに諸生党壊滅した松山戦争)。市川三左衛門逃亡し東京潜伏していたが明治2年1869年)に捕えられ、水戸処刑された。

※この「戊辰戦争以後」の解説は、「諸生党」の解説の一部です。
「戊辰戦争以後」を含む「諸生党」の記事については、「諸生党」の概要を参照ください。

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