戊辰戦争以後
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慶応4年1月(1868年2月)、戊辰戦争が始まると、諸生党に対する追討命令が朝廷から出された。これにより水戸藩に戻った本圀寺党をはじめとする天狗党の残党と諸生党の間で再度抗争が起こり、今度は賊軍となった諸生党はたちまち勢力を失い、市川らは水戸を脱して会津へ向かった。武田金次郎ら天狗党が藩内での権力を掌握すると、諸生党やその家族に対して激しい報復が行われ、各地で多くの諸生党士民が処刑されたり投獄されたりした。 水戸を脱した市川ら約500名の諸生党軍は「市川勢」等と称され、奥羽越列藩同盟の傘下に入って新政府軍との戦闘に加わることとなる。市川らはまず会津城下を目指すが、会津藩から越後方面の防衛を依頼されて柏崎に向かう。北越戦争の際には出雲崎に駐屯しており、会津藩や桑名藩等の隊と共に柏崎周辺で新政府軍と戦うが、椎谷、灰爪などでの戦闘に敗れ、数十名の戦死者を出して弥彦に退却する。7月29日に長岡城が陥落し、8月中旬に越後方面の戦線が崩壊すると、会津藩兵らと共に会津に撤退した。その後、新政府軍が会津に侵攻すると市川らは会津藩の指揮下に入って会津戦争を戦う。冬坂峠の守備についていたが、8月21日に母成峠が陥落して新政府軍が会津若松城に迫ると城下に戻り、土佐藩兵を主力とする新政府軍と大手門付近で戦ってこれを撃退、入城して城の防衛に就く。その後、会津藩家老佐川官兵衛指揮下で城外において戦っていたが、9月22日に会津藩は降伏する。9月25日、田島で会津藩降伏を知った市川らは越後長岡藩兵や回天隊などと合流して会津藩領を脱し、会津戦争参戦のため防備が手薄になっていると思われた水戸城を目指す。出発した一行の人数は500人とも1,000人とも言われる。だが早くも9月27日、片府田(現・大田原市片府田)で大田原藩兵・彦根藩兵などの軍勢に捕捉され、戦死者6名を出し退く(片府田の戦い)。さらには佐良土(現・大田原市佐良土)にて黒羽藩兵と交戦し、11人の死者を出す(佐良土の戦い)。 水戸藩領内に入り天狗党側の守備隊を破りながら9月29日に水戸城下に到着するも、城の守りは堅く入城することができなかったため、名前の由来となった弘道館を占拠して立て籠もる。これに対し天狗党軍は10月1日に攻撃を開始、激しい銃撃戦が行われたが、諸生党に同行してきた諸隊は戦意に乏しかったため、諸生党のみが奮戦する形となった。諸生党軍は天狗党軍に戦死者87名と大きな損害を与えたが、諸生党軍も戦死者約90名ほか多くの負傷者を出し、翌10月2日夜になって退却した(弘道館戦争)。再び水戸を脱した諸生党軍は玉造、潮来を経て10月4日に銚子において小見川藩兵と高崎藩兵の攻撃を受け敗走した。10月6日、八日市場(現・匝瑳市)に逃れたが水戸藩天狗党軍の追撃を受け、松山村(現・匝瑳市松山)にて朝比奈弥太郎以下多数の戦死者を出して、ついに諸生党は壊滅した(松山戦争)。市川三左衛門は逃亡し、東京に潜伏していたが明治2年(1869年)に捕えられ、水戸で処刑された。
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