戊辰戦争以降
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戊辰戦争では旧勤王党の同志らとともに土佐藩東征軍の主力部隊である官軍迅衝隊に加わり錦の御旗の下で華々しい戦果をあげた。 明治維新後は陸軍省、司法省などに出仕した。 明治18年(1885年)7月30日卒去。享年65。明治31年(1898年)7月、特に維新の功を賞せられ、正五位を追贈された。墓は高知県高知市五台山にある。
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戊辰戦争以降
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会津から逃げ延びて以降、榎本武揚や土方歳三と合流して箱館戦線で江差まで戦ったものの、旧幕府軍が降伏すると箱館で捕らえられ、館林藩預け置きとなった。明治3年(1870年)、西郷家は藩主である保科家(会津松平家)の分家でもあったため、本姓の保科に改姓し、保科頼母となる。 明治5年(1872年)に赦免され、伊豆で依田佐二平の開設した謹申学舎塾の塾長となる。 明治8年(1875年)には都都古別神社(現・福島県東白川郡棚倉町)の宮司となるが、西南戦争が勃発すると、西郷隆盛と交遊があったため謀反を疑われ、宮司を解任される。実際、隆盛と頼母の手紙のやりとりはあったが、慶応年間からの知り合いと伝承では成り立っている。 明治12年(1879年)、長男の吉十郎が病没したため、甥(志田貞二郎の三男)の志田四郎(後の柔道家・西郷四郎)を養子とし、彼に柔術を教えた。 明治13年(1880年)、旧会津藩主・松平容保が日光東照宮の宮司となると、頼母は禰宜となった。明治20年(1887年)、後藤象二郎らの提唱する大同団結運動に共鳴し、会津と東京を拠点として政治活動に加わり、日光東照宮の禰宜を辞す。代議士となる準備を進めていたが、大同団結運動が瓦解したため政治運動から身を引き、郷里の若松(現・会津若松市)に戻った。 明治22年(1889年)から明治32年(1899年)まで、福島県伊達郡の霊山神社で神職を務め、辞職後は再び若松に戻った。 明治36年(1903年)に会津若松の十軒長屋で74歳で死去。墓所は妻・千重子の墓とともに、会津の善龍寺にある。
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