諸暴動と西南戦争
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「大日本帝国陸軍の歴史」の記事における「諸暴動と西南戦争」の解説
戊辰戦争以降、日本各地では新政府に反対する士族や農民による暴動が頻発していた。これらの多くは藩兵によって鎮圧されていた。鎮台の設置以後は国内外の防衛は政府の責任となったが兵制は甚だ不十分で依然として旧藩士に頼らなければならなかった。明治2年12月1日(新暦1870年1月2日)、山口藩内にて大楽源太郎よる奇兵隊の取り扱いをめぐる脱隊騒動では山口藩兵と徴兵1個大隊をもって不平隊士を鎮圧し、その後の二卿事件で政府は四条隆謌少将を派遣し鹿児島・熊本・山口の徴兵部隊を率いてこれを鎮圧した。この時期の暴動としては最も悲劇的であった。明治6年以降の血税一揆でも各地で徴兵部隊による鎮圧活動が行なわれた。 1874年(明治7年)以降は最早暴動の次元を超え、計画的・組織的に行なわれ内乱の様相を呈しつつあった。1874年(明治7年)2月に佐賀の乱、1876年(明治9年)10月に神風連の乱、同年11月に萩の乱で鎮台の部隊が出動した。さらに1874年(明治7年)4月から10月まで台湾出兵が行なわれた。これは日本陸軍初の国外派遣となった。 明治六年政変(征韓論政変)に端を発する西郷隆盛らの下野により1877年(明治10年)2月西南戦争が勃発。有栖川宮熾仁親王を征討大総督に任じ第1・第2・第3旅団を派遣した。これが日本陸軍では初めての臨時ではあるが旅団制である。戦局の急迫に伴い、第4旅団、別働第1・別働第2・別働第3・別働第4旅団を編成し派遣、終局ごろには別働第5旅団と新撰旅団を編成し派遣した。このうち別働第3・別働第4旅団と新撰旅団の兵士は鎮台兵の不足により警視庁の警察官を急遽兵士に仕立て上げ戦場に送られたものである(警視隊)。7ヶ月間に及ぶ激戦は官軍の勝利に終わった。勝因としては最高統帥部の政戦略の妙、陸海軍の協調、兵站整備の諸条件の適切な運用にあった。この戦争は誕生間もない日本陸軍にまたとない戦訓を与え、問題点もあらわにした。すなわち戦闘訓練の未熟、将兵の精神教育の不徹底、指揮官の指揮能力の不十分、徴兵組織の不備、動員体制の欠陥などである。
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