南部信誉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/12 10:22 UTC 版)
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化2年11月4日(1805年12月24日) |
死没 | 文久2年閏8月11日(1862年10月4日) |
別名 | 徳太郎、主税(通称) |
官位 | 従五位下丹波守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶→家定→家茂 |
藩 | 陸奥七戸藩主 |
氏族 | 南部氏 |
父母 | 父:南部信鄰、母:不詳 |
兄弟 | 信誉、前田利和継室 |
妻 | 正室:森長義の娘 |
子 |
信賢 養子:謹敦、信民 |
南部 信誉(なんぶ のぶのり)は、江戸時代後期の大名。陸奥国七戸藩の第2代藩主。官位は従五位下丹波守。
生涯
文化2年(1805年)11月4日、初代藩主・南部信鄰の長男として誕生。
文政4年(1821年)に父が死去したため、翌文政5年(1822年)正月に跡を継いだ。安政5年(1858年)に城主格となる。文久2年(1862年)8月、死去。享年58。
実子に南部信賢(啓之助・内室は南部利済の娘)がいたが、嘉永年間に、本藩藩主の利済の4男・謹敦を養子とした。しかし安政年間までには養嗣子を信民に替え[1]、信民が継いだ。
系譜
父母
- 南部信鄰(父)
正室
- 秀 - 森長義の娘
子女
- 南部信賢
養子
脚注
- ^ なお、「日本人名大辞典」および「岩手県史」、「系図纂要」では謹敦は南部利剛の旧名とし、「大武鑑 中巻」掲載の嘉永4年(1851年)の武鑑では利剛を『南部美濃守謹敦』と表記しているので、これらが正しい場合、謹敦は本家を継いだ利剛本人の可能性が高い。
参考文献
- 上田正昭・西澤潤一・平山郁夫・三浦朱門監修『日本人名大辞典』(講談社、2001年)
- 橋本博『改訂増補・大武鑑・中巻』(名著刊行会、1965年)
- 『岩手県史 第5巻 (近世篇 第2)』(1963年)
- 『系図纂要』
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